起こる出来事は、心の解放のために起こる。
そんなことをひしひしと感じる。
ある人の行為についてLINEで三人で話をしていた。
三人の意見はまったく同意見。私はわざわざ口を挟むまでもないと思ったが、
まとめる意味であることを書いた。
ところが私の言葉の一つ一つにそれはどうかなと、
他の二人の心にひっかかる何かを及ぼして、
二人対一人の状況におかれる。
思いは互いに同じであるのに、
言葉とは時に誤解を招き、それが一人歩きをする。
恐れと怒りが出てきた。
でもこんな時は同じところで話をしても拉致があかないので沈黙した。
その日は用事があり、もやもやする思いを抱えながら自転車で出かける。
風に吹かれながらある感情に気がついた。
寂しいんだ、私。
一人のけ者にされる寂しさ。
いじめられっ子でみんなから汚いものとして扱われてきた時のあの感情が吹き出した。
ああ、この感情。。。
持ってたなあ。。
日頃あまりそんな感情を感じたことがなかった。
それは小さい頃味わったいじめや親の暴力のおかげで、
どう言えば人と同調できるか、争い事を起こさずにすむか、
密かに技術を身につけてきたおかげで、
そういった思いをせずに回避できてきていたのだ。
ところが今回はそれが否応なしにやってきた。
誰からも突き放された、たった一人ぼっちになった寂しいという感情。。。
坂道を猛スピードで降りながら、
その感情を存分に味わった。
出来事は、この世界をどう渡り歩くかを学ぶために起こるのではなく、
心の中に隠し持っている感情を表に出してくるために起こる。
これは私が実際体験しながら気がついていったことだ。
冒頭の誤解を「いやいや、そうではなく。。。」と、
彼らの誤解を解くために奔走する必要はない。
普通はそうやって誤解を解いていくものだ。
しかしそれは私と他人という分離の上に成り立った行為。
分離しているという前提に立ってこの世界で行為をする。
長いことそうやってきたが、ここにきて、そこじゃなかったと気づく。
心なのだ。
心の中に隠し持っている、悲しみ、怒り、恐れ、、、諸々の、
喜びではないものを光の下に持ってくる。
それこそが一番重要だったのだと。
「神さま。私は今こんな寂しさを抱えています。この思いをあなたに渡します。」
と、渡すことで、消してもらうために表れてくれているのだと。
闇は光の下に晒された瞬間消える。
私たちは日頃ネガティブな感情に気がついた時、即座にそれを否定する。
いやいや。こんなに怒ってはいかんだろう。
いやいや。こんなにしんどいのはいかんだろう。
いやいや。こんなに嫌ってはいかんだろう。
そうやって瞬時に心の奥に隠す。
その思いを味わいたくない、そんなものもっていてはいけない。
その自分の感情への否定がことを複雑にする。
出てきた感情を否定し、即座にこの感情にさせた誰かが悪い。あいつをどうにかしてくれよう。
出てきた感情を否定し、即座にこの体が悪いのは、あの治療をしたら治るのだ、どの治療方法がいいのかと「どうすればいいか」を考え始める。
そうしてこの世界をますます重く苦しく、リアルな世界に持っていくのだ。
苦しんでいる自分、嫉妬している自分、拒絶している自分、はたまたお金がないと嘆く自分、
その一見醜い自分のすべてを受け取って、味わう。
それは自分自身を赦すことになる。
自分を責めると、相手も責めることになる。
自分を赦すと、相手も赦すことになる。
なぜならそれはひとつだから。
心の中にある感情を拒絶せずじっと味わっていると、
それが消えていくのがわかる。
心が広がったり、軽くなったり、明るく見えたり、喜びが出てきたりする。
その微妙な違いを知る。
最初は微妙かもしれない。でもだんだんそれがはっきりと見え出す。
その違いに驚く。一体これはなんだ?
こんな変化、今まで味わったことがないぞ。。。
それを知り始めると、もうそこにしか心は向かわなくなる。
それまでは外の何かを変えたら得られるはずだと思っていたが、今は違う。
指一本動かしていないのに、心が解放されていくのだ。
その想いとともにいることで。
それは外に何も求める必要はない。
すべて心の中で起こる。
『このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、確かに目指している。愛の現存そのものは、生来あなたが受け継いでいるものである。愛の対極は恐れであるが、すべてを包み込むものに対極はありえない』ー奇跡講座「テキスト」序文
私の中にある愛が、すべてを溶かしていく。