2024年6月11日火曜日

感応者

「神話」」/洋紙、和紙

 

最近見ているネフリのドラマ「センス8」


感応者と呼ばれる8人の感応者たちが、場所は離れていても同時にお互いを感応し合う。

苦しみも喜びもまるで本人が味わっているかのようにそのまま見て、感じるのだ。

その感覚は私たちのどこかにある。あるからこそそんな物語が生まれる。




ある人に嫌な感情を持つ。ここをこうして変えて欲しいと願う。

コースなら、そう知覚する自分を赦す。

そう見ているということは、そう見たいと願っていることなのだから。

だからこそ、そう願った自分を赦すのだ。

しかし一向に現状は変わらない。

よくよく自分を見てみてみると、現状を変えるために自分を赦していた。


現状を変えるために、、ということは、嫌なことをする人がいるという事実があると自分でその嫌な人を実在させていたのだ。


一般的な赦しは、誰かが何かやったことに対して、心広く寛大に赦すこととして使われている。

しかしじっくりこの言葉を見ると、それは本当に赦しているんだろうかと思い始める。


この世界での赦しは、刑に服させることで、せいぜい「気が晴れる」程度のものだ。このぐらいの嫌なことする人には、このぐらいの罰を受けてもらって、まあ、そんなもんで赦してやるか、という話。


でも本当に赦すとき、心が晴れる。

程度の話ではなく、本当にそれが溶けてなくなることなのではないか。


つまり赦しとは、もともとなかったことを思い出して初めてなされることなのではないか。

誰も何もしていないがゆえに赦すことができる。


罪がある前提の赦しは偽物だ。

罪がない前提の赦しが本当の赦しだと思い始めた。





話は最初に戻る。


私たちも感応者であるなら、兄弟に罪を見ているがゆえに、兄弟は罪を犯す。

だとするなら、自分の考え方を変えたらどうなるのだろう?


嫌なことをする人だと思った上で赦しをしても、

その前提/罪ありきがある限り赦しきることはできないだろう。

だが自分がそれを作ったのだ、自分がその罪を兄弟に見たいと思ったのだと自覚をすることはとても大事。それを赦すことも。


そこからその知覚を変えていく。


今までは水平線上にあるものを見てきた。

水平線上にあるものはカタチ。

絶えず変化するカタチ。

生まれては老いて死んでいくカタチ。


そのカタチを通り過ぎる。

そのカタチを超える。

そのカタチの向こうを見る。

これが縦軸、垂直の流れ。


そこに見えるのは兄弟の光だ。

もちろん肉眼では見えない。

肉眼が捉えるものは水平線上のものしか見えない。


しかしそれを超えて見たいという意志があれば、それで十分。


兄弟の光を見たい。愛を見たい。神聖さを見たい。喜びを見たい。


そこだけを見ることを意志すれば、兄弟はそれに感応する。


その時、私は癒され、そしてまた兄弟も癒される。それは同時に起こる。


水平線上で、カタチを見、そのカタチをどうにか変えようとしても無駄だった。

水平線は時間と空間。そして結果。原因に戻る。


ヒルディリドばあさんが見てきたものは、夜という名のカタチの世界だった。

それはヒルディリドばあさんが考えついた思いの結果。


カタチの世界との闘いに疲れ果て、寝てしまった後に現れる光の世界。


実はそれが私たちの本来の姿。

本当は闇など、罪などなかったのだ。






夜中、目が覚めた。

起きて窓の外を眺める。山の稜線が美しい。


内側から底知れぬパワーが溢れてくる。

何一つ恐れのない感覚、この世界をとっくに通り過ぎた感覚、

喜びと平安と、そしてさらに何かの予感。


この圧倒的な感覚を味わいながら、

私と同じように感応している兄弟がどこかにいると思うと、

喜びでいっぱいになった。
















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