なんもわからん。
そんな言葉が頭の中で響く。
そうか。私はなんもわかってなかったんだ。
そう思うと、ふ~っと肩の荷が降りてくる。
わかっているはずだと思っているから、それを解決せねばならないと思ってた。
そもそもこの世の中にわかっていることあるか?と、疑問に思ってみると、見渡せば、なーんもわかってないじゃん。
なんで太陽があって地球があるのかわからないし、なんでおひさんは西から昇って、東に沈まないのか。なんで日本語がこうなのか。なんで男と女がいるのか。なんで死ぬのか。なんで生まれるのか。
コロナのことも、日に日に言うことが違うし、思いっきり気をつけている人が感染するし。
感染回避方法が絶対的ではないことも証明してくれる。
かかるかかからないかは、その人次第って言われると、もう何もやりようがない。
いやいやそもそも、私たちは「わかってるはずだ」と言うことを前提に考えている。わかっているはずだから、きっと答えがあるはずだと。
だから感染したらどこか後ろめたい。
「わかっているはずなのに、私はそれを防げなかった。。」
と、ただでさえ体がキツイのに、さらに罪の意識さえ感じてしまう。
と、ただでさえ体がキツイのに、さらに罪の意識さえ感じてしまう。
それってどおよ。
小学校の答え合わせのように、必ず答えがあるはずだ!と、答えばっかりを探してきた。
あれから50年。(きみまろ風)
中高年の私にゃ、サーパリ答えが見つからなかった!
だから冒頭の言葉。
なんもわからん。
「わかってる」前提でこの世を生きるから、苦しかったんだ。
「わかってない」を前提にしてみたら?
わかってないから、回避のしようもないが、そもそもそれがなんなのかわかってないのだから、感染するもしないもそれがどう動いて、どう出会って、そうなったのかもわからないのだ。。
どう「やるか」ってことを要求されて、ずっとやってきたけど、
ここにきて、「なんもするな」と言われている。
やることに慣れてきたわたしらは、しないことに慣れていない。すると自動的に心がわさわさする。
そのわさわさする心をどう持っていくか、ということにフォーカスしてみるのもいいもんだ。
サーパリわからないことを、わからないとして、そのまんまにしておく。
大きなものに委ねて、のんびりと生きる。
朝日のかけらが雨上がりの葉っぱの上に落ちて、きらきらひかる。
眩しさに目を細めるこの瞬間に心を乗っける。
ちっちゃい頃、こんな感じだった。
そうだ。ずっと綺麗なものを眺めては嬉しがっていたんだった。
あの頃の心は、今もここにある。
何も知らなかったけど、
包み込むような大きなものは、今もここにある。
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