2020年3月7日土曜日

この世の幸せはちょーみじかっ





幸せとは何か?
って考える。

小さいとき読んだおとぎ話。
「王子様とお姫様は結婚をして、ずーーっと幸せに暮らしましたとさ。ちゃんちゃん」
と、こうなるもんだと思っていたが、
実際はそうはならなかった。

「旦那と私は一緒になりましたが、末長くしょっちゅうケンカをしましたとさ。ちゃんちゃん」
まさにちゃんちゃん、だ。



幸せはどうも短い。
ケーキ食べたとき幸せ、そやけど食べ終わるとおしまい。
学校に合格した。やった!って思うのはその時だけ。あとは勉強で苦しい。
仕事が来た!やった!って思うけど、そのあとはプレッシャーで苦しむ。
お金が入った!やった!って思うけど、今度は減っていくのが恐ろしい。
麦汁で一杯目はうまいが、だんだん腹一杯になる。

なったことないが、有名人になったとしても、社長になったとしても、権力持ったとしても、
一瞬嬉しいけど、その後はそれを維持するために、売り上げを伸ばすために、汚名を被らないために、ひたすら奔走することになる。

おとぎ話で読んだ「ずっと幸せ」なーんてどこにもなかったのだ!
なんだこのやろう。



この世の幸せは、何かをすることによって得られている。
何かをする。
つまり何かを「しなければ」幸せは得られない、という暗黙の条件が引っ付いていたのだ。

あゆみちゃんは綺麗なおべべを着ないと幸せな気分になれない。
哲次くんは100点満点をとって幸せになる。

幸せは「ただそこにぼーっとしてて、得られるもの」ではなかったのだ。
私なんか、窓の外見てぼーっとしてたら、先生に怒られた。

常に誰かの賞賛を浴びないと幸せはやってこない。
つまり誰かに都合のいいようにならないと褒められないのだ。
私なんか、海の岩に跳ねる、すっごく気に入った波の絵を描いたのに、先生に怒られた。



話がズレた。そこじゃない。

幸せは「何かをする」ことによって得られている。
それは逆に言えば、「何もしないと」幸せは得られない、ということを暗示している。

つまりつねに何かをしなければ私は幸せじゃないと無意識に思っているのだ。だからフェイスブックが流行る。リア充が流行る。つねに何かをしている私をアピールできる場所だからだ。

することによって得られる。
それは時間を意味している。



うちの近所にイーアス高尾ってのがある。イーアスは、良い明日って意味だ(と思う)
良い明日の高尾って意味だ。それはそれで良い名前だ。私も個人的に好きな場所だ。


で問題は、私たちは明日や未来を、希望や夢というふうにとらえて、
「良きことが来るところ」と思っているフシがある。
それのどこが問題なのだ?

未来は幸せの象徴。明日こそ、私は幸せになれる!という思い。素敵じゃないか。
しかしその言葉をナナメ読みすると、「今は幸せじゃない」と言ってるのだ。
今は幸せじゃないから、明日こそ幸せになろう!と言っている。

んで、その明日になると、その明日が今日になっても、また明日こそ幸せになろう!という。
これじゃいつまでたっても今幸せにはなれないじゃないかー。
私たちは知らない間に未来に幸せを求め、今を違うとしていたのだ。


これが「することによって得られる幸せ」。
何もしなければ幸せはやってこないという代物。しかもそれは超短い。だからまた別の幸せを求めて、何かをやろうとし続けるのだ。

これを探したら、あれを見つけたら、、、そうやって私はここにはない何かを求め、それをあと押しをする心のおしゃべりに気がついた。
「まだ何か足りないのだ、さあ、探すのだ」と私をそそのかす声を。

その声に気がついた時、初めてその声を外に聞いた。
「これは私の声ではない。。。。
私を突き動かすその声は私を破壊にしか導かない。。。」


私はその声を通り越して、その向こうに降りていった。。

そのおしゃべりのずっと下の方に、静かな海があった。
海の波がいつもざわめいている表層から遠く離れた、そのずっと下の方に、なにものにも影響されない平安があった。

することではなく、あること。
そういう言葉がよぎる。

仕事の手を止めて、目を閉じる。
何かになろうとも、何かを考えようとも、何かを見つけ出そうともしない。
ただそのままで、じっとする。
誰でもないもののままで。



小さい時、何かになれとか、何かをせよと言われるのではなく、
あなたはそのままでいいと言われたなら、
その子は、きっとただそのままで心は平和だろう。

6歳の時、塀の上に登って向こうに見える水平線を眺めていたひとりの少女のように。















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