2015年4月6日月曜日

判断するとドラマがおこる



瞬間瞬間、起こることが起こっている。
人はその起こったことに対して「判断」をする。

判断その1:出来事への判断

その起こっていることに、「これはいいこと」「これは悪いこと」と判断をする。

するとそくざに、そのいい悪いの判断から導き出される、感情が自動的に起こってくる。

「イヤだ」
「なんだよ、あいつ。。」
「がまんできない」
「イラっとする」
「なんだか落ち込む」
「こわい。。」などなど。

かとおもうと、
「うわっ、うれしい!」
「キャー、信じらんない!」
「やったあーっ!」
「ああ、いいかんじ~」
「ほー、ほっこりするなあ」
「やべえ、うんめえ!」
「くーっ、さいこーっ!」
「ふ~っ、極楽、極楽~」などなど。

 

判断その2:感情に対する判断

後者の感情にたいして判断はおこらないが、前者には、確実に次の判断がやって来る。

この感情は悪いこと、と。

するとそくざに、その判断から、そこからの脱出計画が練られる。

「このヤバい状況をなんとかせねば。。」
「イヤだ、イヤだ、逃げたい。。。でもできない。。。」
「あの野郎をどうにかせねば、こっちがヤラレる」
「いかん、怒るな、オレ。切れるな、オレ。ここでガマンしないとあとでえらいめにあう。。。」
などなど。

人はいいと判断したことは引きずらないが、わるいと判断したことは、それが「解決」されるまで引きずる。

こーしてドラマが展開される。
渡る世間は鬼ばかりでないと、ドラマはあっという間に終わる。渡る世間が神ばかりだとつまんない。


だが、この「判断」は、その人のオリジナルのものじゃない。確実に外から教わったものだ。これはいいこと、これはいけないことと、小さいときから「判断しろ、そうじゃないと生きられないのだ」と要求され続けた結果、パブロフの犬のように自動的におこってくる働きだ。

そのドラマが苦しいと感じたら、自分に自動的におこって来る判断を疑え。
これは本当は正しいのか、これは本当はいけないことなのか。
ひょっとしたら、いいも悪いもないのではないか?

幸不幸を決めるのは、他でもない、この判断から来る。

いい悪いの判断が自分を苦しくさせる。その判断は時代によって、国によってまったく変わる。実は曖昧なものなのだ。その曖昧なものをだいじににぎって、自分や他人を責めつづける。


その幸不幸のドラマに飽きた人は、その出来事をただながめるようだ。
ワル役のあいつは、こっちの判断が作動しなくなったとたん、単に演技をしている人になる。こっちにちょっかいを出さなくなる。ただ目の前で演技をして去っていく。

起こることが起こる。
何の判断もせず、それをただ見ている。いや、たとえ判断が起こっても、それをダメだとも判断しない。判断している自分を、ただ見ている。
するとそれはやがて過ぎ去っていく。

目の前を出来事が起こり、去っていく。

それを味わっているだれかがいる。


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