2011年5月22日日曜日
ヒカクスル?
人生の不幸は、比較から始まる。
お兄ちゃんをごらんなさい!
それに比べてあんたって人は。。。
あ、兄ちゃんのケーキの方がおっきいや。。。
また泣いて帰って来て!ケンちゃんより強くなりなさい!
先生のようにえらくなりなさい!
おまえ、テストの点、みんなより下じゃねえか。あほとちゃうか。
おれ、みんなと違ってあほ大学しか受からなかった。。。
あ、おれの給料すくね。。。
私たちは常に、自分以外の人やモノと比較させられている。その習慣は無意識に自分でもやる。それは比較とは向上心を生んで、人生のモチベーションをあげると信じられているからだ。
先生のようにえらくなれ、リンカーンのように偉大であれというけど、それって良く考えたら、「お前はまだニンゲンではない」といわれているようなもんだ。ニンゲンではないから、先生のようなりっぱな生き物になれと言う。その言葉は、生徒自身を先生は見ていないということだ。さいとー君は、さいとー君なのだ。なのに誰かになれと言う。それは暴言である。さいとー君は、さいとー君にしかなれない。
しかし、さいとー君は、センセにアンドー君を見ならえだとか、みんなより点数が低いぞとか、みんなより足遅いぞと言われて、アンドー君を目標にしたり、50点まではとるぞと点数の目標にしたり、ビリじゃダメだと自分に言い聞かせたりする。
そうやってさいとー君は人生の目標をつねに外にある何かにするのだ。大事なことを忘れている。本来さいとー君はさいとー君でしかない。アンドー君にはなれないのだということだ。
なれないものになろうとする。
これほど無益な努力はないのではないか?だから人生は悲劇的なのだ。最初にインプットした何かと比較しろという文化は、後々の人生にまで深く影響を及ぼしている。比較とは諸刃の剣である。いい方のことばかりもてはやされるが、むしろ悪影響の方が大きい。自分の心の中でいつもぶつくさツイッターしている言葉を意識してみよう。
「ああ、またシミがふえた」「もうトシだから」「ウチのダンナったら、サイテー。それに比べてお隣のダンナ様って。。」「あいつ、昇格したのか。。。」「あ、また抜け毛だ。。。」「ああ、また数値が上がっちゃった。。」
シミも、トシも、ダンナも、抜け毛も、昇格もメタボのなげきも全部比較から来る。昔と比べてシミがふえたといい、抜け毛も若い頃のふさふさと比べて嘆く。
テレビやネットでは「お友達に差をつけちゃいましょう」と言うし、「あなた、そんな人生でいいんですか?」と脅してくる。
私たちは外のものと比較し、自分を嘆いたり、逆に比べて誇らしく思ったりする。しかし対象になっているのはつねに「外」なのだ。
ウチの犬のユタは、比較していなかった。今を生きていた。友だちんちのドックフードがゴージャスでも「ウチのドッグフードは貧弱だ」とは思っていなかった。友だちんちにいけば、まずキッチンに走り込んでそのゴージャスなドッグフードをいの一番にむさぼり食ってから、友だちと遊ぶ。ただそれだけだ。彼に葛藤はない。
比較した瞬間、葛藤が生まれる。ああなりたい、こうなりたいとおもう。そこには自分自身の性格が無視されている。その無茶な目標が人生に葛藤を生む。シミがいやなのは、シミがあってはいけないという刷り込みがあるからだ。年がいっていやなのは、若い方がいいという刷り込みがあるからだ。年はいくもんである。あたりまえなのである。それをムリヤリ時間を止めようとするその努力が葛藤を生むのだ。
その葛藤がどれだけ精神的に疲れさせているか考えたことがある?その労力は99%の心労と1%の喜びを与えるだけだ。だがその1%の喜びも、所詮外からの刷り込みによる価値観なので、すぐ消える。
「くほっ、体重へった」とほくそ笑んだ瞬間、
「それだけでいいんですか?あなたそこで満足してていいんですか?」
と心のどこかが言うからだ。
私たちは、つねに比較して、葛藤して、疲れ果てているのだ。
絵「COOPけんぽ/あじさいと妖精」
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2 件のコメント:
おいら、最近なんでもいいようになりつつある・・。
って言うと、いんやまだ煩悩が見えてる!
て言われそうですがね・・。
そんな心境なんですよ。
おお、なんでもいい。それいい。
今や悟りの境地にいたりつつある。。?
私もそこへ連れてって!
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