9月は、展示即売会、お里帰り、町内会の長老の集まりの主催などの行事が重なった。
忙しい日々の中、ある現象が私の中で起こっていた。
行事が始まる前、きまって具合が悪くなるのだ。
もう、、ダメだ。。。こんな状態でできない。。。
しかし始まると、そんな体の不調はどこかにふき飛んでしまう。
終わった朝はケロッと起きる。
前からこの変な癖を知ってはいたが、今回は行事続き。
必ずやってくる体の不調。
そしてなかったかのように消える、この変なものは一体なんなんだ!
(単なるプレッシャーだろ)
そして、ひょっとしてこれではないか、、?
と思うフシが。。。
「自分は肉体である説」
体の不調って、ものすごく体を意識する。
自分は体だ!と。
自分は個別で独立してて、
あの人ともこの人とも分かれている一人の人間だ。
これから人と出会うのだと思った瞬間、緊張が走る。
個別と個別が出会う瞬間。恐ろしい。実に恐ろしい。
その思いをさらに強調してくれるのが、この体の不調だ。
私は一個の人間で、これから別の個体と出会う!恐ろしい!
うわ~~もうダメだ!最悪だ!自分は死んでしまう~~!
ほとんど頭がおかしい人。
なぜそんなことをやっているのか。
では次の説。
「自分は罪人である説」
自分はとんでもない罪を背負って生まれてきているから、
その罪を償うために、自分に罰を与えないといけない。
その罰はなんでもいい。
とにかく辛い思い、恐ろしい思いをたっぷり味わうことによって、
その大いなる罪を償わなければいけないのだ!
これです。
この罪の思いが根底にあるので、
自分を肉体だと思わせ、
その肉体を懲らしめるということをやっている。
肉体にまつわる苦しみはなんでもある。
病気、死、老い。
それだけじゃない。
お金、名誉、人間関係、恋愛、家、仕事、成功、、、、。
およそこの世界にあるほとんどのことは、
自分が肉体であるという縛りからの苦しみなのだ。
実は肉体自体が檻。
その中に閉じ込められているという思いが、罪の象徴。
、、、なのではあるが、
本当は私たちは檻の外にいる。
檻の鉄格子を外から掴み、檻の中の出来事を最悪の気分で眺め、
「ここから出してくれええ~~~!」と叫んでいるのだ。
いや。あなたは今も檻の外にいますから。
本当は檻の外にいながら、自分は罪人だと信じているから、
檻の中にいると勘違いをしている。
罪人だと信じているから、
罰を与えるために、自分は肉体(檻)だと信じ込ませるために調子が悪くなった気分になる。
それで罰を与え、その思いで心を苦しめさせることによって
ちょっとでも罪を償えると信じてやまない。
自分はその罪で満載の檻の外にいる。
この今見えている世界の中にいるのではなく、外にいるのだ。
あなたに罪など一度も起こったことはない。
当然罰を与える必要もない。
それを思い出すこと。
それが垂直の知覚。
とか書きながら。
行事が重なって締め切り過ぎた仕事がまだ手元に残る。
焦りでなかなか進まず、
ウンウン唸って頭をかきむしる。
「この檻から私を出してくれええ~~~~っ!」
と、檻の外から鉄格子を握りしめて叫ぶ私であった。
ちゃんちゃん。
絵:「猫じゃらし」
2 件のコメント:
いつもピンポイントでお世話になっております。
「垂直な知覚」
これまた悩ませる言葉が出てきましたね^^;
梶くん、
垂直の知覚とは、
まずその反対の「水平の知覚」で自分たちが見ているという自覚が必要になります。
水平の知覚とは、この世界すべて。
時間、空間、自分、他人、五感、感覚、恐れ、罪、罪悪感、分離、破壊、死、、、、。
それは横軸になります。
今知っているすべての知覚です。
それとは全く違う視点があります。
水平の知覚の一切を縦軸から眺める。垂直の意識。
コースではそれを「戦場を上から眺める」という比喩も使います。
水平の世界は戦場です。梶くんがすでに味わってきた世界です。
垂直の知覚とは、平安、静けさ、喜び、愛、光、一つ、形など全くない、聖霊が見る世界です。
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