今、目の前に起こっていることすべてを
私の心の中が何を信じ、
何を考えて解釈しているのか
ということの現れてとしての責任は
私にあるとして、受け入れはじめている。
赦しとは、すべてを受け入れることなのではないか。
最近は、そんなふうに思い始めている。
どんな知覚も、それに対する判断からくる感情も、
たとえ恐れであっても、
それを正そうとも、いけないとジャッジすることもなく、
そのまんま受け入れる。包含する。
包含すると、目の前のものが、
すーっと自分の元に帰っていく。
ここから現れたものだったので、
それが現れた元に帰って行き、
ここに収まっていく感じがするのだ。
動揺する原因は、外にある出来事ではなく、
それはすでに結果として現れただけだ。
原因は私にあった。私の心が現れている。
だからこそその分離の考えは、
それを起こした私の心に戻っていくのだろう。
すべてが私の中に帰ってくると、力が私に戻ってくる。
目の前のものは、確固たる物質として、私を襲っては来なくなる。
静けさと力強さが満ちてくる。
拒絶とは分離であった。
包含とはひとつであった。
忘れていたことが思い出されてくる。
絵:栗拾い
小学生の時、栗拾いのバイトをしたことがある。
坂を滑り落ちてお尻に棘がいっぱい刺さって痛かった。
だけどお昼にもらったあんぱんのとても美味しかったこと。
今は昔の物語。
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