何か嫌なもの、動揺するものを見て、
それを赦す時、
わりとやってしまいがちなのは、
その嫌なものを消そうとして、赦そうとすることじゃないかなあ。
気に入らない状況や、誰かにどっかに行ってもらうために
ほとんど無意識にやってるけど、
聖霊と共に赦します。。。って。
私だけ?(笑)
現象を消すために赦しは使えないよなあ。
魔法の杖みたいに。
そもそも現象があるのは、
自我が「この世界はあるよ」って教えるためにある(余計なお世話じゃ)。
その現象を見て、楽しんだり怒ったり泣いたりしてくれるためにある。
その箱庭の中で喜怒哀楽を味わい、
いつまでもそこにい続けてもらうことが自我の目的だ(油屋のようだ)。
コースが使う「赦し」は、そこから脱出するための道具。
その道具をその現象を消すための道具として使おうとするなら、
その前提が「この現象は存在する」と言ってるようなものだ。
嫌なものが実在してて、それを消すとは、
罪は実在するけど、それを消してやろうとしていることと同じ。
消そうとする思いは拒絶。
自分から離れて欲しいという分離の思い。
本当は私から出たもの。
油屋の湯婆婆は私が原因(笑)。
私の中にある嫌なものを、外に見た(出した)。
それだけなのだ。
だから赦すとは、
いったん外に出した自分のものを、
また自分に受け取ることなんじゃないかなあ。
受け取る。引き受ける。包含する。慈しむ。赦す。
拒絶、分離、とは全く反対方向の流れ。
そうやって現れた苦しい感覚を、そのまま受け取る。
目の前の現象は心の結果として現れているだけ。
その原因である、
心が感じているものだけにフォーカスする。
嫌なものがあると信じていることを受け入れる。
罪を見つけた自分を受け入れる。
怖がっている自分を受け入れる。
そしてその恐れているものをも、受け入れるんだ。
その何もかもを包含する静けさの中で、
実在していなかったものが、
元の無に帰っていく。
さっきまでのものが内側で自然と消えていくのを発見する。
違った見方で見えている。
この世界は、肉眼で見ているのではなく、
心が見ているのだと少しづつ実感する。
絵:「葛」
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