展示即売会の二日後、高知に帰省してきた。
母を施設に送り届けてのちすぐにコロナが始まり、その後なかなか帰れずにいた。
施設では窓越しに母と面会。
窓越しといっても、ほんとの外と中。
9月といえど高知はまだ夏。
36度の猛烈な暑さの中、私は電話で母と話した。
3年ぶりに会う母。
少し小さく痩せた母であったが、あのかくしゃくとした雰囲気はまだ健在。
すべてを受け入れた彼女の強い意志を感じた。
高知は私にとって大事なふるさと。
しかし歳を追うごとに、ただ楽しかった帰省はだんだんと悲しみを帯びてくる。
私を含め同級生達も同じように老いていく。
楽しかった時間もだんだん減っていく。
帰るたびに否が応でも老いと向き合うことになる。
今思うと、大阪に出た親戚の叔父叔母が滅多に故郷に帰ってこなくなった理由もわかる。
老いにしたがって、生きるとは?生きている意味とは?
これが生きているということなのか?
そういう問いが、リアルに迫ってくる。
実家がないので、帰るたびにホテル宿泊。
ホテルの窓から眺める高知の風景はいつも同じ。
身を寄せ合うようにひしめき合った古びたビル群。
その中で暮らす人々の想い。
老いていく自分の身に対する漠然とした不安。
この世界でどんなに頑張っても、花開いたとしても、
やがて老いて死んでいく身だということは誰にも変わらない。
父の葬式、母の施設、その都度帰ってきては、
ホテルの窓から眺める風景は、いつも悲しかった。
その無限の悲しみのループに、私はとてつもなく苦しくなった。
いつまでこの無限ループの中にいなければいけないのか。
私は祈った。
聖霊さん、あなたにはこの世界はどう見えるのですか?
あなたの見方を教えてください。
その時、この世界は夢なのだと思い出した。
私はこの夢の中の一人の人間として生きている主人公ではないのだ。
そうではなく、この夢を見ている側なのだと。
高知に帰るたびに、「私は肉体だ」と信じていることがはっきりと見える。
お墓、病気、老い、、、、。
全てが肉体にまつわることだ。
その肉体をどうするか。そのことばかりに私たちは終始している。
これこそが、この夢の中の主人公が常に考えていることだ。
この体をどうするのか。
この老いをどうするのか。
死んでは、このお骨をどこに埋めるのか。。。。
その肉体中心で考えているその人間、それこそがこの夢の中の「主人公」。
だが私はそれではない。
その夢を作り出して、その夢を見ている側にいる。
この今目の前に見えている風景は、私の心の中にあるものだ。
ではこの「私」とは一体誰なのだ?
「霊」
ハッとした。
そうだ。私は霊だ。
霊といっても、あまりにも漠然としている。
でもこの目の前にあるものすべてを包み込んでいる何か。
形がなく明るい何か。とんでもなくでかい何か。
私はその中に入っていった。
そしてワークブックに出てきた言葉を思い出していた。
「私の心から、あなたの心へ、平安を広げます」
その言葉には、もうすでに私は平安の中にいる。
それをあなたに渡し、この平安は無限に広がっていく。。。そんなイメージがあった。
そして再び目の前の古びたビル群を見たとき、
さっきまでとは違う目で見ていることに気づいた。
それはこの世界の住人の視点ではなかった。
この世界の主人公ではなくなっていた。
地上に立つ小さな人間ではなかった。
その古びたビル群は、悲しみなどどこにもなく、安らかな喜びに満ちたビル群だった。
これが聖霊が見ている視点なのか。。。
そこには過去も未来もなく、
静かな喜びが溢れていた。
つづく
写真:窓越しに見える母と、ガラスに映った私。
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