夜、不思議な体験をした。
私が望んでいた幸せの形が、すべてバッサリと足元に落ちた。
幸せの形といっても、
お金が増えたら仕事が増えたら、
この体の痛みが消えてくれたら、といった形だけではない。
洗濯物が雨に濡れたら嫌だ、
コップの汚れが気に入らない、
お腹の出っ張りが気に入らない、
そんな思いまでもが幸せになるための条件だった。
こうあってくれたら、私は幸せ。
そうでなかったら、私は幸せ。
そういうありとあらゆる自分の人生や社会への不満や欠乏感や求める形がバッサリと落ちた。
そこに立っていたのは、
もはや形を持っていない光る私だった。
その私から現れてくるのは、
完全なる静寂の中からどんどん溢れてくる幸福感と喜び。
私は幸せそのものだった。
存在自体がその塊だった。
幸せというものは、外からひっつけて身につけるものでも、
手に入れて自分のものにするものでもなかった。
外から何かを引っ付ける幸せなど必要なかった。
なぜならもうすでに幸せだったから。
私はこの世界に形を見初めて、その世界に没入していった。
その長い時間の間に、存在そのものが幸せであったことはだんだん忘れていき、
外にある何かを引っ付ける、装う、自分のものにすることが幸せだと信じ始めたのだ。
だがどんなに欲したものでさえも、
手に入れたときだけが幸せで、それが当たり前になってしまうと
また次の幸せを求めてさまようことになる。
何も手に入れる必要はなかった。
何かを待って手に入れることなどいらなかったのだ。
私が幸せそのものだった。
真っ暗な部屋の中で、何も見えない。
でも何も見えなくても安らぎと喜びがある。
窓を開けて山の稜線を眺めても、そこに幸せがある。
私はこの夢の世界で、
夢の中の形を身につけたりくっつけたりして、
夢の中で幸せになろうとしていたのだった。
その幸せの形など、目が覚めてしまえば、存在しないものなのに。
その時私はその夢の外にいた。
そのまったくはかない、一瞬でも存在すらしたことのないいろんな形で、
自分を幸せにしようとしていたことが、微笑ましく思えた。
その夜は本当に幸せそのものだった。
朝起きた時もその余韻はまだ続いていた。
そして小さなことにまた引っかかり始める。
これがなくなってくれたら私は幸せ、と。
その時思い出した。
その思いが、本当の幸せを忘れさせるものだったと。
絵:「素敵に女ざかり」ドラマタイトルイラスト
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