過去をまったく忘れると、ついでに未来も消える。
私と思っていることも、じつは過去の記憶から来る。
私は誰それ、こういう職業をもって、、、という記憶。
それさえも頭から消したら、そこには目の前の世界だけが広がる。
電車の音、ストーブの上で湧いているヤカンの声、カチャカチャというキーボードの音、それに触れる感触、、、、
いやいや。キーボードという名前さえも過去の記憶から来る。
すべての名前は過去の記憶。
それが消えたら、名前のない「これ」がある。
今という所にいると、「これ」しかなくなる。
自分さえも消える。
目に見えている自分の指さえ、風景の一部になる。
すこし立つと、あたまの中に音が聞こえる。
それもじつは外にある。
考えていると言うが、はたして「考えている」んだろうか。それはただ聞こえてくる音ではないか?そう、外から聞こえてくる音。。
そして感覚も外。匂いも外。わき上がってくる感情も外。
今あるすべてが外にあり、そしてこれ全部をひっくるめて、「これ」が、わたしそのものだ。目の前の風景、音、匂い、感触、浮かんでくる考え、わき上がってくる感情、すべてが私。
人と言う形をしたものはいない。「私」は人間の形をしているものではない。目の前にある風景、山も、空も、手も、すべてが私なのだ。
小さい頃はそう感じていた。
目の前に広がるすべてのものと自分という境目もない。
自分という個別になっていったのは、他者からそう教わったからだ。もしこの世に一人だけ存在していたら、山と私の境などなかったろう。山と私という言葉によって、区別が生まれただけだ。
そういう言葉遊びによって、この文明は生まれた。
そこにはよろこびというものと一緒に悲しみも生み出した。
自分にはなにか欠けているものがあって、それをなにかで埋めようとする。
もので埋めようとする。しかしものでは埋まり切らない。
科学で埋めようとする。しかし科学でも埋まり切らない。
こんどは精神で埋めようとする。宗教だったり哲学だったり。
しかし精神でも埋まらない。
言葉によって分離が生まれたのだもの。
言葉をつくしても、そのなにかが欠けているものは埋まらない。
言葉がなかった頃。その頃を思いだす。
感覚の中にいた。名付ける前の感覚。
その感覚を意識する。
忘れていた何かが動き始める。
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