2018年1月21日日曜日

認めてもらうこと


私たちは、私たち自身をなかなか受け入れることが出来ない。

自分を受け入れるというのは、どこか傲慢でおごり高ぶった人間、というふうな印象がある。
だから自分を認めるなんて、お尻がむずむずするような居心地の悪さを感じてしまう。

そして他人に「いいね」とほめられると、
「いやいや。わたしなんかまだまだ。。。」
と答えるというのが謙遜、美徳とされる。

そういうものが土台にあるので、他人から認められる、ほめられることがよいとされている。


ところがこれには落とし穴がある。
自分自身の評価を、他人にゆだねるのだ。

ここにいていいと、自分で自分を認めるのではなく、他人に、そこにいていいよと言われたがっている。(だから「いいね!」があるのか)

人に認められることで培って来た習慣のために、自分自身で自分を認められない。そして人に認めてもらうことを無意識に常にもとめる。


人はそれぞれ独自のものがそなわっている。
そのオリジナルな自分が、いつのまにか他人視線の自分にすり替わっていく。
こうすれば認めてくれるだろう、こうすればほめてもらえるはずだ。。。そうやって、だんだん人が認めてくれるであろうやり方に変わっていくのだ。

小さい時に、親のいうことを聞いた、お手伝いをした、よいことをした。そしてほめられた。
そういう記憶が少なからず入っている。
もちろんよいことをするのも親の言うことを聞くことも素晴らしい行為だ。そうやってこの世で生きていくルールを身につける。

だがたいていは、そのまま横滑りして大人になっても「人にほめてもらえるように生きる」ようになる。
こうすれば認められるはずだという期待をもとに。


ところが現実はそうは簡単にいかない。その期待通りには答えてもらえないのが大人の社会だ。
他人目線にあわせて行為したはずが、答えてもらえない葛藤。自分がここにいていいと言われないことへの焦燥感。そうやって苦しみが生まれる。

「こんなはずじゃないのに。。」
「なんだよ、ムシかよー。」
「君がよろこぶと思ってやったんだぜ。。。」

期待に答えてくれない相手にいかり始める。

もともとの行為が、自分がここにいていいと言われたいがための行為だった。それが受け入れられないとなると、やった意味がない!と怒り出す。

それは純粋にやりたかった行為なのか?
いいと言われたいがための「条件付き」の行為だったのではないか?


子供の頃、いいことをしてほめられた。
またほめられようと、いいことをしてみせたが、おかあさんはそのときほめてくれなかった。
その時の挫折感や悲しみが、記憶の中からよみがえる。
「いい子でいたのに!どうして!?」

その感情が大人になっても同じ条件下で浮上してくる。
それが怒りになって相手を射抜く。


これは自分が自分を認めていないからだ。意識しない限り、ずっと人に認められることでしか、自分が自分を認められないまんまだ。


現代人のほとんどがその状態といえる。
そんなことしゃべっている私も、その典型だった。
ほめられることで、一瞬ここにいていいんだ~という安堵感がおこるが、また次の瞬間から次にほめてもらうことを探しはじめる。その繰り返し。



それは他人に自分のパワーをあずけていることだった。
他人とは、架空の他人だ。架空の他人に「こうすれば認めてくれるはずだ」と信じて行為をしてきたが、ちっとも認めてくれない事実に葛藤を起こして来た。

怒り、悲しみ、挫折し、嫉妬し、ねたみ、孤独を感じ、悪口をいい、
最後には自分を消し去りたかった。

あるとき、これは自分のパワーを人にわたしていたんだ。。。と気がついた。わたされた相手が、強くなるのではない。強そうに見えていただけだった。


認められたいほめられたいということの、マイナスの要因がクリアに見えてくると、それをしている自分に気がつきはじめる。生活のいろんなシーンで、他人にパワーを与えている自分に気がつきはじめた。
ほめられたいという思いは、ほめてくれる他人に自分のパワーを与えてるのだ。


そうして私はすこしづつ、そのパワーを取り戻していった。
ほめられたい、認められたいという衝動に気がつき、そしてその衝動をそのまま受け取るということをした。

「ほめられたがっているんだね。そうなんだね。それでいいよ」と。

その衝動は、一瞬燃え盛るように起こるが、その感覚をとらえたままでいると、間もなく消えていった。


自分の内側で起こるあらゆる感情を見、それをそのまま受け取ることをしていくあいだに、だんだん自分にパワーが戻って来た。そして他人に認められることを必要としなくなってくる自分にも気がつきはじめた。

自分のありのままを受け取ることは、本当にありのままを受け取ることだ。いいことだけでなく、いやな部分、汚い部分、否定したくなるような部分、全部。そのまんま、受け取ること。
それが結果的に、自分自身を認めることになっていた。


自分のえげつない部分に気がついたとき呟いてみる。
「ほ~、そうきたかー。ええんだよ。それで」

その感情のまんまにほっておくと、やがて消えていく。
どうも宇宙はそうなっているようだ。
おためしあれ。












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