ともかく、ぜんぶおっけーなのである。
何でこんな単純なことがわからんかった?
いや、えらーい時間かかって、よーやくここ。
こっから、どないになるかは、未来さんにお任せしましょー。
じっと座っていても、出来事は起こり続ける。すべては動き続けている。
どっかから、音が聞こえる。
心臓はどくどく。
皮膚の感覚はぴりぴり。
そして、なぜかじっとしてても頭の声はしゃべる。
これは心地よい。おっけー。
これは心地悪い。排除。
これはいるけど、それいらない。
頭の声も「起こっている動き」でしかないのに、いつのまにかそれをしゃべっているのは「私」と勘違いをした。
「私」がいて、声を発していると。
そして「私」がかんがえているんだと。
そしてその声が言う、イエスとノーという判断に耳を傾けた。
そしてノーという言葉に反応した。
それはノーだから、排除しなければならないと。
ノーと判断したものが、排除できないと苦しい。
「おまえ、あっちいけ!」
っていうのに、なぜかじーっと居座る。
「だから、おまえ、いらないってば!」
って、怒ってみる。
気のせいか、さっきよりも存在感が増したよーな気がする。
「だーかーらあーーー!」
っていえばいうほど、是が非でも居座り続け、
気がついたら、もの凄く巨大になっている排除しなければいけないもの!
あれ?これ、排除しよーとすればするほど、でかくなってね?
と、気がつく。
ほおっておいても、動きが流れていく。
だが、その流れの一部を受け取り、一部を排除する私たち。
するとその流れは滞りはじめる。
それはもがけばもがくほど、ますます滞っていく。
頭がノーと言ったものを、じーっと見てみる。
今まで「私」とおもっているものが、「これはノー!」というからには、きっとノーなものにちがいない!と、信じ込んでいたんだが、
その言い分をほっといて、それそのものを見る。
排除もせず、判断もせず、それそのものと向かい合ってみる。
すると、それはしだいに消えていった。
そーゆーことを繰り返すうちに、
なんだ。全部イエスでいいんじゃんか。と、気がついた。
現れてくる動きを、判断する頭の声。それに合わせて表れてくる不快な感情。それさえも、うけとめる。どんな醜い感情であっても。
どんな出来事も、思いも、感覚も、感情も、すべてがダイナミックな動きの中にある。
私たちは、それをそのまんまぜんぶひっくるめた、なにか、だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿