2018年1月8日月曜日

詰め込む知識と理解のちがい



「死ぬまで勉強」という。
年がいっても精力的に学んでいる人は多い。
だが「学び」のほとんどは、「知識としていれる」ということになっている気がする。

だから、勉強する、学ぶ、わかる、というものが、情報として入れていくことというふうにすり替わっている。

聞いて、見て、読んで、それを納得して、ああ、そうか。わかったぞ!といって、情報としていれていく。
そんなことが学びになっている気がする。

だから学んだことを、即実行することが出来る。
「ああ、これはきのうテレビで言ったことだから、こうするべきなんだ」というふうに。
そうやって知識がどんどん増えていき、人はその情報の中で生きる。



だが本当に「理解」することは、知識を入れることじゃない。
それは、はっとするほど「わかる」ことだ。

今まで「ああ、そうそう。それはそういうことなのよ」というある種余裕の、
それ、知ってるわよ的な次元ではなく、
「あ。。。!」
という、言葉にならない理解なのだ。

それはズシンとくるものであったり、
ぱーっと、広がるものであったり、
時には、ぞっとするものであったり、
何かしらんが、カラダに反応が起こる。

あの本で言ってたことは、あの人が言ってたことは、「このことだったんか!」と、ショックを受けるほどの「理解」なのだ。

その時、いくつもの謎が解ける。
あれは、、、ああ、これのせいだったのか、、、
あれも、、、ああそうか。どおりで、、、!
え~~~っ!そしたら、これも?それも?うん。まさにそうだ。。。。!

これは冒頭の「知識としていれる」次元ではない。
たった1つのキーワードの理解をきっかけに、いろんなものがぱたぱたと解体しはじめる。

前者は、知識と言う情報を詰め込んで、より重荷を背負っていくのに対して、後者は理解によって、人生の重荷をときはじめる。

前者はいつでも入れて利用できる。だが基本的に恐怖を植え付けていく。こうしなければいけない、こうするべきだと。

後者は、いつでも入れることは出来ない。入れるというものでもない。勝手に「起こる」ことだ。
それでもそれが「起こる」ためには、そこに向かう姿勢がいる。
自分の内側で起こっていることに目を向けていくという姿勢。

これがなかなかできない。人は救いを外に求める。外に私を解決してくれるものがあるはずだと信じてやまない。そして内側を観ることなど、恐ろしくてできない。



だから非二元の言葉は魅力的だった。
「私はいない」「それがあるだけ」「すべては幻」「起こることが起こっている」
これらの強烈な言葉は、最初はビックリするが、どこかほっとさせた。

この言葉にたどり着くまでに、どれだけの洞察が必要かわからないほど、難しい言葉なのだが、この情報の渦の中、その知識を今までと同じように詰め込んで、翌日から利用することが出来たのだ。

「だって、、、この世は幻なんだもん」
「怒っちゃいけない?でもすべては起こることが起こっているだけなのよ」
「あなたは私に皿を洗えと言うが、その私はいないのだ」と(笑)。

前者の詰め込み型理解では、到底たどり着けない非二元の言葉。コンビニエントに利用していても、やがて苦しさに気がつくだろう。

後者の「このことだったのか。。。!」という理解が、最初の突破口になり、それはどんどん洞察を深めていく。行きつ戻りつしながらも、その理解は加速度をまし、頭では到底理解しきれない何かを触りはじめる。

ほんとうに知りたいことは、自分の内部の深い海の中にある。


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