年明けに高知に帰って来た。
父の容態も悪く、母もいよいよよいよいで、楽しくもない帰郷だった。
だけどふたを開けてみれば、自分にとっていろんなことを思いださせる濃厚な時間だった。
このごろの帰郷は深い。
自分のお国=高知=大好き♥という法則から、だんだんと親の老いの問題、自分の老後という重々しさゆえ、高知=気が重いという法則に変わっていった。(笑)
父の車を借りて、制作に使う土佐和紙を買いに、伊野に向かう。足を伸ばして仁淀川に。ここは父の故郷。山の中腹にご先祖様の墓があって、狭い山道を墓参りに出かけたものだ。いつもコウゾの香りがあたり一面漂っていた和紙の村だった。
私が絵の具でなく、紙を扱うようになったのも、そんな記憶があったからかもしれない。紙は私のからだのどこかを刺激して郷愁を誘っていたようだ。
仁淀川におりてみる。河川敷が広い。最近は「仁淀ブルー」と言って、蒼い川の色で有名になった川。四万十よりも清流と言われている。和紙と水は切っても切り離せない関係。土佐和紙が発達したのはこの仁淀川のおかげなのだろう。
高知にしてはいつになく冷たい雨が降っている。蒼い川は静かに流れていた。雨のおかげで、河川敷のゴロゴロした石が濡れて、かれら独自の色をくっきり際立たせていた。桂浜の五色の石と同じ色をしている。ここから下流に流れていったのだろうか。美しい色とりどりの石に見ほれて写真を撮る。
石の一個一個が抽象絵画のようにうつくしかった。
もう少し車を走らせて、沈下橋を見る。
台風で水かさが増えたとき、流木が橋の欄干にひかっかからないように、手すりがない。おっかなびっくり歩いていると、地元の車がすごいいきおいで通り抜けていった。なれている人々には、なんてことない橋なのだ。
顔がビビってます
今度は車を東に向けて走らせた。
「今回で、そこにいくのは最後だぞ」
仁淀川のほとりのカフェでカプチーノとモンブランを食べながらだんなが言う。
その言葉を聞いたとたん、予期せず涙があふれた。
そこは私にとって特別な場所だった。父の仕事の関係で、高知の田舎を転々とした。
その中でも、幼稚園から小学校3年生までいたその場所は、私の人生にあらゆることを教えてくれた。人が生きていくあいだに味わう数々の感情、この世のルール。そしてこの世ではないような不思議な体験。私の考えの基本を作りあげてくれたところだった。恐怖とよろこびと興味が入り交じった所。。。
これが最後。。。。そう思ったときあふれて来た涙に、
「ああ、私はここを愛していたんだ。。」と知った。
いまはない私たちが住んでいた場所にたつ。
井戸の跡が、かつてそこに家があったことをかすかに教えてくれるのみ。まわりはおびただしい墓に囲まれていた。
私はその墓たちのなかでひとり遊んでいたのだ。
「あ、そこ踏んじゃダメ。お墓あるから」
だんなにうながす。
枯れ草の間からかすかに石らしきものが覗いている。それは墓の頭だった。
よく見ると、墓として存在している場所は、すこしくぼんでいる。ここは砂地。長い年月のあいだに、墓石はじょじょに沈んでいったのだ。まだここらにご子息がおられる墓は、掘り起こしているのだろう。
私がここにいた時は、まだ草も生えておらず、お墓は至る所にあった。今は枯れ草の草原が広がっているが、その下にはおびただしい墓石が眠っているのだ。
人に踏むなと言いつつ、踏んでいたらごめんなさい
神社にも向かった。
ここはお祭りのとき、参道に灯籠がずらっとならんだ。その灯籠一個一個が恐ろしい絵が描かれており、闇夜に浮かんだその絵を見たとき凍りついた思い出がある。
しかし子供の記憶は曖昧なもので、それが本当に恐ろしい絵だったか、さだかではない。
母のアパートに戻って、そこに行ったことを伝えると、母は一枚の写真を見せてくれた。
それはまさにあの場所で、あの墓の横で、母と幼い私が嬉しそうに立っている写真だった。
うしろには今はないあの家が。
父はカメラをもっていて、家で現像していた。あの当時カラー写真は珍しいので、どこかで現像してもらったのだろう。
父と、母と、私。
それぞれの思惑が交叉する時間をとらえた写真。
けれどもシャッターを切ったその瞬間だけは、私たち親子は幸せだったに違いない。
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