2009年1月4日日曜日

あけましておめでとうございます



新年あけましておめでとうございます。
今年も皆様方にも私にも、ますますよい年でありますように。

と、昼間っからお屠蘇を飲みながらほろ酔い気分であります。

例年なら、いちおーおせち料理作ってお重につめてそれらしくやる私。母の影響で、ニッポンのでんとー文化というものを継承しようと長年頑張ってやって来た。ニューヨークでいるときも、無理矢理それらしくやって来た。でもここに来て、待てよ。と思った。ま、早い話がお正月を準備するお金がない、ということなのだが。
でもそういう時にしか、人は何かしら考えない。切羽詰まらないと、頭も体も動かないもんだ。ヘタにお金なんかあったら、そのまんま同じことを繰り返すじゃないか(単なるへ理屈か?)。

市場に行って数の子を見る。「数の子は子孫繁栄〜」と言って手に取ろうとする。でも待てよ。毎年数の子食ってんのに、うちには子供がいないじゃないか。「黒豆煮て、まめまめしく〜」って、別に黒豆食べなくてもまめに働く事は出来るじゃないか。
昆布巻きで、よろこぶ〜って。昆布巻きなんか食べなくても、よろこぶときはある。
おいおい。これは単なる語呂合わせだろ。しかも日本語。日本人にしか通じないじゃないか。

ひょっとしてひょっとしたら、ある時どっかの誰かが「あっ、これ語呂合わせでおもしろ〜い」って始めた事を、となりの人が「あっ、それ、いい」ってとなりの人もやりだして、それを見たとなりの人が「おお、それはいい」と始めた。それが広がっていつのまにかみんながやり始めてそれが伝統文化のはじまり.....?
つまり伝統文化はどっかの誰かの、たった一人のアイディアが、あっちやこっちからたくさん集まって出来て来たもんじゃなかろうか。

でも、それが何か真実に近いモノなら、腑に落ちて消えないで続けられていくのだ。お正月のいろいろなしきたりや形は、きっと何かしらの宇宙的な真理をついている。だからこんなに長く受け継がれて来たに違いない。

けれどもいつのまにかその伝統は、たくさんの形式を生み出した。アメリカで一度過ごしてみると、日本の伝統のなんと複雑な事か。決まり事がものすごく多い。日本はコトアゲの国、見立ての国。なんでもかんでもありがたいものや縁起を担いだものを作って、新年の神様をうやうやしくお迎えするのだ。その有り様は、世界に類を見ないと言っていいだろう。

ところが「ちゃんとしなきゃ病」の私は、いつのまにか「こうしないと縁起が悪い」とか「これやってないとお正月を迎えられない」とか思い始めて、それが強迫観念のようになってしまっていた。だから年末は何かしら慌ただしい。たぶん心が「あれしなきゃ、これしなきゃ」と忙しかったのだ。

じゃあ、いっぺんそんなものやめてみたらどうなるのか。
ここまで洗練されなかった時代に戻ってみるのはどうなのか。出来るだけお金を使わない方法をやってみた。
畑のそばの枝おろしをしたヒノキの葉っぱなどを駆使して、神棚の飾りに使ったり、水回りの輪飾りの代わりにする。ヒノキは神聖な木なので神様もお怒りにはならないだろう。お花も1000円の安いものに、庭に咲いていた南天の紅白を入れた。豪華になった。おせちもうちにある野菜で作った。自分で自分なりに「こうすれば神様は喜んでくれるかな?」といろいろ想像を膨らまして飾り付けた。

すると、なんと言うことだ。それで十分事足りてしまったではないか。ちゃんとお正月になってしまったではないか。
ひょっとしたら、これが本来の神様の迎え方なんじゃないんだろうか。いつのまにか形にばっかり囚われて、本来の目的である「うやうやしく神様をお迎えする」ことが、気持ちの入らないものになってしまっていたかもしれない。本末転倒だ。

ありとあらゆるものであふれてしまったこんな時代。いっぺん白紙にして素朴な所からはじめてみるのも心の整理としていいのかもしれない。
今年は、そんなことを考えてみる年にしたいなあ。

そんな私ですが、今年もみなさま、よろしくお願いたします。

絵:『T&R』掲載

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