2009年1月22日木曜日

バベルの塔





言葉というものは、難儀な道具である。
むかしは、「阿吽の呼吸」なんちゃって、
「あ?」と、一声いえば「うん」と答えちゃうくらいわかりあえたはずだった。
つまりは、1言えば、10わかるくらい優れた民族だった日本人。
ところが今は、1言っても、0.5わかればいい方だ。

畑で棟梁がいう言葉がちっともわからないのは、私の中に想像力が鈍って来たからなのではないだろうか。昔の人なら「そこをそうする」といわれると、「ああ、そこをそうするのね」と手に取るようにわかる。それは、言葉の後ろにある思いが、すでに伝わっているという事だ。


ニューヨークにいて気づいた事とは、英語とはなんと説明の多い言葉だろうかと思った事だった。
たとえば
「コップを手にする」という日本語を英語にすると、
「私は、机の上に置かれたコップを、手によって、持つ」などという、いちいちめんどくさいいいかたをする。必ず主語を言わなくてはいけないし、どこに置かれたものか、どうやって持つか、なども言わないといけない。
でも日本語は「コップを手にする」というだけで、「私が」という事はわかっているし、どうせどっかの上に置かれたものであろうこともわかっている。だから短い言葉でこと足りる。

そういう言葉のシステムだから、彼らアメリカ人は早口でものすごい量のことばをしゃべるのだ。

デリカテッセンにいくと、長々と店のおっちゃんに何かを注文している人たちを見かける。さぞかしスペシャルなサンドイッチをたのんでいるんだろうとおもいきや、
「パンに、ハム、レタス、トマト、それにオニオンも入れて」と、パンに挟むものをいちいち言っているだけの事。ま、そこまではいいとして、そこに「塩とコショウも入れてね。ああ、それにマヨネーズも」までも言わないといけない。

日本人からすれば、「サンドイッチだろ?塩はいいとしてコショウは入れるし、マヨネーズはあたりまえやん!」とツッコミを入れたくなる。
だからアメリカに来て初々しい観光客の日本人が「ハムサンドイッチをください」というと、
パンにハムを挟んだだけの、塩こしょうもレタスもオニオンも、マヨネーズもない味気なーいサンドイッチをもらうはめになる。(そりゃ、私か)

アメリカにはいろんな趣味思考があるし、コショウアレルギーや、卵アレルギーなどの体質の人もいる。おまけに告訴の国だ。何で告訴されるかわかったもんじゃない。
だからすべてを言わなければいけない。
これじゃ、何かそこに「スペシャルなおまけ」みたいなものが期待できないではないか。パンの中に言われたものだけが入っているだけの事だ。つまらん。(たまに聴き取れなくて、肝心のものが入ってなかったりするが)

日本の店のように、客がカウンターに座るなり、
「おう、おやじ。てきとーにたのむよ」
と言うと、カウンターの向こうで、ねじり鉢巻した主人が、
「あいよ。今日は生きのいいのが入ったからねえ〜」
お客は何がやってくるのか楽しみで、心がほくほくする....、となるはずが、
「何だと?オレは魚アレルギーなのだ!」と、告訴されてしまう事になるかもしれない。

つまり「あ」と言えば「うん」という呼吸は、その前提に「みんな同じ価値観」があったからなのかもしれない。

日本は戦争に負けてのち、どどどーっとアメリカの文化が押し寄せて来た。ついでにありとあらゆる価値や思想や思考も雪崩のごとく入って来た。そして個人というものを教え始めた。個人の考え、個人の価値、個人の趣味思考、家族は核家族になり、子供たちにはカギ付きの部屋が与えられる。テレビは一人に一台になり、情報は個々人が、それぞれ受け取っていく。
当然、子の考えは親の考えとは違ってくる。今、おばあちゃん、おかあさん、むすめ、たった親子三代の中だけで、すべての価値観が違っている。話が通じないのだ。

昔はそうではなかったはずだ。こんな時代は日本の歴史始まって以来の事なんじゃないか?
いや、きっと世界中が。


今はまさに「バベルの塔」のような状態なんではないだろうか。となりの人の言葉がわからないのだ。娘の言葉がわからないのだ。

私はふと「バベルの塔」に住んでいた人々は、一つの言葉を話していたというが、それは言葉ではなくて、心が見えていたのではないだろうかと思った。お互いの心が読めたのだ。だから何を考えているのか手に取るようにわかる。まさに「あ」と言えば「うん」なのだ。けれども神はニンゲンの傲慢さをお怒りになり、おたがいの心が見えなくされた...。
となりの人の心が読めなくなった。これほど心細い事はない。相手が何を考えているのかわからないのだもの。

言葉というものは、ひょっとしたら、そのお互いの心がみえなくなったからこそ、生まれた道具だったのかもしれない。
手を見て、「これは『手』と呼ぶ事にしよう」、水を見て「これは『水』と呼ぶ事にしよう」と、お互いが約束事を始めた。

その道具も長いこと使い古されて、その限界がきているのかもしれない。今人々は徹底的に、言葉の後ろにひそんでいるものさえ感じ取れなく、見えなくなってしまったのだ。

「バベルの塔」事件ののち、言葉が通じなくなって世界中に散らばった民族は、ついにお互いの中でもわかりあえなくなって来た。
これからいったいどこへいくのだろう。

私は、やがてその道具は必要なくなる時代がやってくるのではないかと思っている。

すべての人々が、またお互いに心が見える時代がやってくるのではないかと。

絵:中学校教科書『現代の国語2』より「走れメロス」

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