2009年1月14日水曜日
スローな私
私は小学校を卒業するまで、のろまだった。
「スロー」とか「のろま」が私の形容詞。頭のねじが10本はかるく抜けていたと思う。
何をするにもぼーっとしていて遅い。
体育の授業で、教室で着替えて校庭に出てくるのに、40分かかったこともある。やっと体育の授業の仲間入りをしたかと思うと、5分で終わってしまった(笑)。
「つくしちゃん、いままでなにをしていたの?」と先生。
「うん。教室でお着替えをしていたの」と私。
まず上着をぬぐ。それをたたむのに時間がかかる。つぎにスカートをぬぐ。それをたたむのにも時間がかかる。
それから体育服を持ち上げて着る。すると、前とうしろが反対だった事に気がつく。
「あ、いけない。後ろ前になってる」と、ぬぐ。それから、また後ろ前を気にしながら着る。
すると、今度は裏返しに着ていた事に気がつく。
「あ、いけない。裏返しだった....」と、ぬぐ。それから裏返しを直して着ると、今度は後ろ前の事を忘れている。着てみるとまた前後ろが反対。
「あ、いけない。後ろ前になってる....」と、またぬぐ。そして今度は、裏返したまま着る。
そしてまた「あ、いけない。裏返しになっている...」とまたぬぐ......。そしてまた....。
本人はどんどんあせってくる。するともっとパニックになって、なにがなんだかわからなくなる。そうやって、やっと全部着替え終わった頃には40分がすぎていた。つくしちゃんは、その時点でものすごい体力を消耗していた。(これが体育の授業のようなもんか)
一事が万事そんな風だから、授業もろくに聴いていない。
母方のばばあちゃんが、ウチに遊びに来ていると、下校の時刻がなってもつくしはウチに帰ってこない。心配して学校に向うと、彼女は必ず職員室にいた。
そんなときはたいてい授業を聴かずにぼーっとしていたから、先生にしぼられていたのだ。ばばあちゃんは、恥ずかしい思いをしながら彼女を連れて帰ったと言う。
そんなつくしちゃんだったが、ちょっとがんばってみた事もある。
あるテストの時間。
彼女は考えた。「いつも遅い遅いと言われるから、今日は早く出そう」
テスト開始から5分もたたないうちに、つくしちゃんは先生の所に答案用紙を持って来た。
「先生。出来ました」
「あら、いつもよりずいぶん早いじゃないの」先生は彼女の答案用紙を見た。名前以外、何も書いていない。先生はやさしくこう言った。
「つくしちゃん、ここには何も書いていないわね。まだたっぶり時間はあるわよ。じっくり答えを考えて書いてらっしゃい。」
すると彼女は、また10分もしないうちに持って来た。
先生は「まあ、もう出来たの?今日はずいぶん早いのね」と答案用紙を見た。
そこにはいっぱい文字が書き込んであった。でも、何一つ質問の答えになっていなかった....。
母は、その時の話をときどきして笑う。どうもその時の担任の先生が彼女の友達だったようだ。だから私の授業中の行動をチクイチ教えていたらしい。
大笑いされても困るのだ。そのとき、本人は必死だったのだ。
「早く出さないと!」という事が、その日は最優先された。それで今日の目的は達成されたはずだった。でもそのあと、先生に何か書けといわれたのだ。何か書かないといけないと思った。だから、何でもいいから書いて埋めたのだ。答えなんてわかるはずもない。じっくり答えを考えるなんて高度なこと、ねじが10本ゆるんでいたニンゲンにできるわけもないのだ。
最近マイブームになっているのが、小林正観さんという人の本。すっごくわかりやすい言葉で、すっごくわかりやすく書いてある。でもその簡単な言葉の中に深いものがいっぱい入っている。その彼の文章の中に「子供はぼーっとしているもの」というのを見つける。まさに私のこと。彼いわく、ついでに親もぼーっとしていろ、という。そのぼーっとしてる時間の中にいろんなものが育まれているのだと彼はいう。
まさに授業中ぼーっとしていた私は、心を宇宙のはてにまで飛ばしていたのだ。あの時間があったからこそ、今の私があるような気がしてならない。
そんな私もあれから時間とともに大人になって、ねじが緩んでいないふりをするワザも身につけた。けれどもここに来て、それにも疲れてきたような気がする。
今、その言葉を聞いて、そろそろ昔の私にもどろっかなあ〜、と、おもいはじめている。
今度道ばたで、ぼーっとしている私を見かけたら、
「ああ、つくしさんは、昔の自分にもどっているんだなあ」と、温かく見守ってやってください。
絵:オリジナル絵本「みっちゃんのたからもの」
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