2009年1月30日金曜日

「しまった病」




おまえはひまなんか?といわれそうだが、一人でぶつぶつ考える事がある。

私の「ちゃんとしなきゃ病」はかなりの重傷のようで、その病気の前に、もう一つの重大な病いに犯されている事が判明。
それはちゃんとしなきゃと思う前に必ず何かしら「やらかして」いるのだ。
それは「あっ、やばい。やってしまった」「あっ、まずい。買ってしまった」「げ、言ってしまった」などと、自分のやった事に対して、大きく後悔をする事である。
これを「しまった病」と呼ぶ事にしよう。

つまり、私のばあい、「しまった病」が発病してのち、すぐに「ちゃんとしなきゃ病」に転移するのである。
それはやってしまったと思い込んでいる事に対して、その場をとりつくろうと言う、いささか情けない精神構造から成り立っている。

どうも小さい時から「あっ!やっちゃったー!」と思う事がひんぱん。
たぶん、親に「こらあ、なにしよらあーッ」「あんた、なにしゆうがーっ」といつも怒られてきたからに違いない。
でも怒られた本人、その時何をしていたのか気がついていない。だからいつも唐突に怒られる。

そのため、いつもびくびくしていた。つまりこのびくびくするという心理は、私は自分が知らない間に何かをしでかしているかもしれないという恐怖にいつもおびえていたということだ。もっと言うと、自分というものが信用できないのだ。だって、ほっておいたら、何しでかすかわかんないんだもの。こりゃ、厄介なお荷物をしょってしまったものだ。子供ながら、そんなお荷物の自分がいやになった。これを自己嫌悪という(しっとるわ)。

そんな気持ちでいるものだから、いつも自分を見張るようになった。それが「監視人」を生み出した理由だ。そのりっぱな監視人を雇っているにもかかわらず、雇っている本人に似て、これがまたボケている。彼は本人がやらかすのを見とどけてから注意するのだ。「ほら!またやった!」と。

あんたねえ。監視人なんだから、やる前に注意しなさいよ!と、おもう。でも結局それを生み出した本人がボケているのだから、その監視人がデキル監視人なわけがない(笑)。
だからいつもやってしまったあとで「ほらほら!」といちゃもんをつけるだけなのだ。

私は、そのわけのわからないモンスターたちを飼い続けるのがだんだんいやになって来た。

だいたい「しまった病」も「ちゃんとしなきゃ病」も「監視人」も、自分が失敗する事を怖れているから作り上げた代物なのだ。もっといえば、「かっこつけている」だけなのだ。
世の中、デキル女がかっこいいし、成功する人生がかっこいいし、老けているよりは若い方がいい(なんのこっちゃ)。
でもそれも勝手に自分が決めた事。こうじゃなきゃいけないと思い込んでいる妄想。

庭で虫をバシバシ木にぶちつけて食っている鳥たちは、そんなこと気にするだろうか。うちの犬のユタは、道路が凍ってつるつるで、足がもつれてすってんころりんとなっても、シラッとして恥ずかしい顔一つしない。そこには自己顕示欲やかっこしいのカケラもない。
ニンゲンは余計な事で、余計な労力をいっぱい使っているんではないだろうか。私からかっこしいをとったら、「ちゃんとしなきゃ病」も「しまった病」も必要なくなるんではないのか。自分が信用できないのは、たんに失敗を怖れる事から来るのではないだろうか。

失敗すりゃいいじゃん、私。
それをそのまま受け止める事が、あすへの勉強になるのだ。失敗は、勉強するためのきっかけにすぎないのかもしれない。やっちゃったと言って、その場をとりつくろう事なんかしてたら、いつまでたっても学べないのだ。とりつくろう事で、その場がごまかせて、本人はホッとするだろう。でもそれは勉強にはならない。単にとりつくろうという、いつもの繰り返しだけで終わる。

「ありゃ、やっちゃいましたか。こりゃ、失礼」と、平然と言う勇気がいるな。

みんな、人に迷惑をかけて生きているのだ。
迷惑をかけて生きているんだという事を認める勇気がいるな。
人は、動物食って、植物食って、バクテリア食って、水飲んで、空気まで吸って、生きているんだもの。動物にとっても、植物にとっても、みんなにとってもそりゃ迷惑な話だよな。「オレは迷惑はかけないぜ」なんてかっこつけてらんないさあ。

今も企画を出した絵本が出版社から戻って来てしまった。
ははは〜、泣くな私。
いつか誰かに会えるために、また一歩前進したのだ。

絵:レタスクラブ「お金の本」より

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