わけのわからんおばさんは、
わけのわからんことを書くので、
よいこは真似しないようにしてください。
この頃思うのだ。
この世界で生き抜くことを考えなくてもいいんじゃね?と。
ふとやってくる不安。将来の不安。健康の不安。お金の不安。。。。
カオナシが金の石をほれっほれっと、私に差し出す。
一見魅力的な金の石。
「ほら。あなたには将来の約束がないでしょう。
そのためにはやらなければいけないことがいっぱいあるのよ。。。」
私はその魅力的な金の石(考え)に魅せられる。
「ああ、そうだった!私には何の保証もない!
その保険を確保するためにああやってこうやって。。。」
その時考える方法は、どこかで聞いたことのある内容。
親に、先生に、新聞に、ニュースに、ご近所さんに聞いたことのある、耳に馴染みのある方法。
しかしそのことを考え始めた時、
心のどこかがずしっと重くなる。
何かに絡め取られるような感覚、
そこから逃れられなくなるような不快感、
縛り付けられるような感じ、
そして自分が一人ぼっちになってサバイバルしなければいけない寂しさ。。。
そう。。。自分が一個の小さくて弱い個体に思えてくるのだ。
コースはいう。
あなたは幻想について考えている。
だからあなたの心は考えてもいない。空白であると。
コースの大前提は、「世界は存在しない」だ。
世界はないのに、そのない世界について、ああだこうだと考えている。
カオナシの金の石は存在しないのに、その金の石について考え続けている。
幻想について考えるということは恐れを生み出す。
カオナシの金の石は、この世のダイヤモンドでもあるし、ケーキでもあり、
戦争でもあり、ご近所さんの悪口でもあるし、この世の残酷なものでもある。
この世のすべてのものだ。この世に誘い込んでくる魅力的なもの。
実はそれは罪。カオナシは、罪を差し出している。
金の色に塗られた罪の石なのだ。。!
それは存在しない。その金の石は幻想。
その幻想、つまり罪があるという思いに絡め取られるから、
そのことを必死になって考える。
当然私の心はずしっと重くなる。
だから真に考えている所で考える。
それって何?
私にもさっぱりわからん。
しかし聖霊が知っている。
だからこそ聖霊とともに見る。
聖霊の考えを聞く。
相変わらず何も聞こえないけど(笑)。
しかしその時心が広がる。
個体という凝縮された重たいものとは全く違う、
体など忘れてしまう、どんどん広がる私だ。
この世界に、見えるもの、聞こえるもの、味わうもの、匂うもの、触れるもの、の五感。
そこから引き起こされてくる思考、そしてそこからさらにこの世界をリアルに思わせる感情。。。
そのすべてを否定した後に残るもの。
何かはわからないが、はっきりと私は実在するという感覚が残る。
そこにとどまる。
それが神の想念の中にいるのかどうかはわからない。
けれども少なくともその私は人間ではない。
この世界のことなどまったく無頓着になる。
ではこの世界のことを考えないで生活できるのか。できる。
仕事もするし、事務的なこともする。ご飯も作れる。
油屋から出た私の心は静かだ。
どこまでも広がっていく心だ。
とまあ、そんな風になれたらいーなーという
わけのわからんおばさんのお話でしたー。
(なってないんかい!)
絵:「飛び石と秋」
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