まったく。
心ってのはやっかいだ。
何かを予定するたびに心は動揺し、不安に打ち震え、
いきなり具合が悪くなり(中には気絶する人もいるらしい)、
もうダメだあ~!と感極まって、
そして予定はしれっと進んでいく。
9月はそんな月だった。
んが!しかし!
どん尻にひけえし我が個展が11月の後半に控えている。
喜びと恐れが交互にやってくる。
心ってのは、常に問題を求めている。
「問題なかったら嫌なんか!」
と、ツッコミを入れたくなるほど。
そして案の定、怒涛のような恐れと不安と心配が私を襲う。
つまりだ。
なんでもいいんだよ。きっかけは。
「恐れのためなら死んでもいい!」(タモリの名言別バージョン)
ってな勢いで、必死で問題を求めて三千里。
でもさ。
これでいざ個展が終わってみれば、
また次の問題探して三千里を歩くのだ。
動揺しているのは、目の前のことじゃない。
恐れているのは、予定のことじゃない。
問題は、そこじゃない。
目の前の問題を解決することにフォーカスして終始しているわたしに気がつくこと。
それはいつまでも消えない、きりのない問題解決の道。
ウォシュレットが壊れた。
まだ買って二年ばかりしかたってないのに~。
修理に出すにもお金がかかる。
新しいのを買うにもお金がかかる。
ああこの問題さえ解決できたら私は幸せなのに。
でもお金が減る。。。
この水平の世界では、幸せになるためには犠牲/代償が伴う。
ウォシュレットを買う→問題解決→お金が減る
問題解決しても、お金が減るという別の問題が浮上する。
ケーキを食べる幸せがあっても、
太るという恐れを呼び起こす。(またはお金が減る)
たとえお金が増えても、今度は減るという恐れが伴う。
こうやっていつまでもこの世界の中の問題に取り組むことを延々とやらされているのだ。
その問題が現れてくるのはどこか。
心。頭に聞こえてくる声。
「問題、問題、問題、問題~🎵」
カオナシが「ほれっ、ほれっ」と、金の石を見せる。
私たちはカエルのように、ホイホイとついていく。
そーだそーだ。それが問題だ!と。
でも千は違った。
カオナシの誘惑には乗らない。
それが嘘だと知っているから。
問題はそこじゃないとわかっているから。
だから通り過ぎる。
心の中でうるさくいう声は、
この世界にフォーカスさせるための自我からのお誘いなのだ。
夜中、声にならない声でうなされる。
そのバイブレーションは、全面的に私を否定していた。
具体的な言葉にはなっていないが、
「お前が悪い!お前がやることは全て間違っている!お前は罪人だ!」と叫んでいた。
それは絵を描くという行為はもちろん、
生きること、息をすることさえも全否定する呪いの振動だった。
こういう自我の抵抗は、周期的にやってくる。
お前はそっちに行ってはならない。そこは地獄だ!絶対行くな!と。
そこに私が向かえば、自我の居場所がなくなるからだ。
そりゃあ、気が気ではない。
そういうものすごい抵抗がやってくるが、
それは繰り返しではなく、螺旋を描きながらだんだん微細になっていく。
その振動に最初は抵抗していたがますますきつくなるばかり。
そして抵抗をやめて、受け入れた。
静かにその叫びを聞く。
反応、同調を一切やめて、ただ静かにその中にいる。
千は、凶暴になったカオナシを裁きもせず、そのまま見、
そして一緒に、その本当の問題解決のために電車に乗った。
垂直の知覚。
油屋というざわついた水平の知覚の世界から、
静かな垂直の知覚へと移行する。
絵:「梅の秋」
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