ある時、何をしたわけでもないのに、
急に幸せになったりする。
目の前のものが生き生きして見え、心は溢れんばかりの喜びに満ち溢れる。
「うわ~なんじゃこりゃ~。しゃーわせでたまらんわー」
をしばし味わい、おばさんは部屋で小躍りをする。
そしてまたフツーに戻る。
でもその感覚はどこかに残っていて、
胸の奥あたりに「ん?」って探すとそこにある。
火種がいつもあって、そこにフォーカスすると、また燃え上がる。
そういう経験を繰り返すと、私たちはもともと幸せなんじゃないかと思う。
そう思い始めると、コースがいうことがマジなんじゃね?とじわじわくるのだ。
神から離れてみたら?というアイディアが、
神とは反対のものを味わってみたいと思うなら、
そりゃあ不幸せを味わいたくてこの世界を作ったんだろうなと思えてくる。
この世界はなんて不幸なんだ!
と嘆いていた時間がかなり長かったが、別の方向からみはじめると、
そうか。そもそもその不幸が味わいたかったから、不幸な夢を作り出しているんだと。
コースには最初っからそう書いてあるが、「ふん。まさかね」と思っていた。
その「まさか」だったのだ。
とんでもない「まさか」であった。
その「まさか」は、人を自由にする。
不幸とは、罪から始まる。
私たちは罪を見続けている。
その代表的なものがカラダだ。
カラダのことを忘れている時なんかほとんどない。
例えば、人と自分を比べる材料はカラダ。
「心が傷ついた」という発想が出てくるのも、
カラダという物質が傷つくと考えていることからくる。
自分の収入と人の収入を比べるのも、
自分の財布と人の財布は別物と考えているから。
それは目に見える物質的カラダが分かれて見えるからだ。
ワンネスを本気で信じていたら、
人に傷つけられたと思うはずがない。
私たちは、自分や人をどこかで常にさばいている。
そのことに気づいていくことで、
自分の不幸の原因を見つけていくことができる。
私は常に自分のカラダをさばいている。
若い時から、今に至るまで。
過去こうであったのに今は違うという。
そのそうであったその過去でさえも、その時の自分をさばいていた。
この頃、ますますさばく材料が増えてくる(笑)
カラダはさばきの代表だ。
カラダは常に罪を思い起こさせる。
カラダを意識した瞬間、罪を感じる。
ここが嫌だ。こうなってくれたらいいのに。
その思いから、そうなっていない自分をさばき、そうなるように策を練る。
だが努力してもそうはならない。
自分とは程遠い美しい人を見ては、また自分をさばく。
その考えの中にいる限り、ずっと不幸。
それは願ったり叶ったり。
だってそれを欲したのは自分だから。
ということは、
欲した原因を知ることは、
それをいらないということができる。
不幸遊びはもういらない!もう必要ない!ときっぱりいうことができる。
そこで電話をするのだ。
私:「聖霊さん、この『不幸んこ』の回収をお願いします。」
聖霊さん:「よっしゃ!任せとけ!」
絵:「高尾の天狗と紅葉」
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