アナスタシアの3部作を読んだ。
彼女はシベリアのタイガの森の奥で、ひとりで男の子を産み育てていた。
その子育てがすごい。
男の子は雌クマの脇の下ですやすや眠り、起きて草原におりるとうんちをする。そのうんちがついたおしりを、雌グマがなめてあげる。彼女の仕事はそこまで。今度はオオカミがやってきて、昼間の世話をする。はいはいをしながらオオカミのところへ行き、口の中に手を突っ込んで、牙を触ってもオオカミはされるがまま。
さっきクマの目玉が気になって触りにいったときも、雌グマはいやがらず、さっとまぶたを閉じるだけ。あくまでも彼の行為に任せている。
アナスタシアははいはいをしながら途中で彼が虫を触っても、花を触って花粉をなめてもやめさせない。彼がやりたいようにさせている。彼がその中でこれはまずいもの、これは安全なもの、と自然に学んでいくに任せている。そして彼がおっぱいを飲みたくなって来たい時に来させる。けしてはいはいの途中で抱き上げて、おっぱいを飲ませたりしない。
彼という一人の独立した人間として尊重して育てている。彼は草原ではいはいする中で自然を学び、花を眺めて宇宙を知る。そこに人間の親の介在する場所はないかのごとくに。
これは現代社会を生きるニンゲンにとってびっくりしないか。
だって、子育てはことごとく子供の行動を管理しようとする。
草の上をはいはいしたらばい菌がつくとするし、虫なんか触ろうもんなら、おおさわぎする。好きな時にだっこして、親の都合でおっぱいをのませる。ましてやクマの脇の下でおねんねさせようとする親なんかどこにもいない(笑)。
彼女は子供をまるで神のようにみつめる。あそこに神様がいるわ。と。
すべてを知っている神がいる、と。
やまんばがまだはいはいしていた頃、あるとき真っ黒く大きなヒモのようなものを触っているのに母親が気づいた。よくみると、大きなアオダイショウの頭をなでていたのだそうだ。母親はびっくりして私を持ち上げたそうな。
そのときやまんばは何を見ていたのだろう。そのアオダイショウと何を話していたんだろう。そこに宇宙が広がっていたに違いない。
アナスタシアの子育ては私に何かを確信させる。
私たちが自分の行為にいちいち否定的になるのは、ここじゃないか?
触ろうとすると、とめられる。行こうとすると、行く手を阻まれ、欲しくないおっぱいをもらい、寝たくもないのにムリヤリ寝させられる。
これはどういうことになるのか。
好きにやろうとすれば、ダメダメといわれるということは、好きにやってはいけないとおもいこむんじゃないだろうか。
つまり、何をやるにも誰かのオッケーをもらわないとできない。なにかやるにも、誰かの顔色を見て、その誰かが「いいわよ。そうしても」と言われないといけないとおもいこんでしまうのだ。
もちろん、今の子育てが悪いとか、じゃあ、クマの脇腹で育てろというのかってなはなしじゃないんだ。
もっと自分自身に引き寄せて考えることなんだ。
人の目を気にして、人の判断に委ねて生きている私たち。それは生まれてきた最初のころ、やろうとすることをとめられたところにあるかもしれないっておもうんだな。
しかももっと重要な影響がある。
私は親のゆう通りしないと生きていけない、小さな存在なのだともおもいこんでしまう。小さくって力のない、誰かの言うことを聞いて生きていかなきゃいけない存在なんだって、信じ込んでしまうのだ。
なんてえこったい。
じゃあ、親に文句を言え!ってな話になっちゃうと、親も困るんだな。
親だってそうやって教わってきたんだもん。
たぶんね、私らは、その最初の、『絶対的自分への否定』を受け入れて、それを乗り越えると決めて生まれてきた存在なんだ。
アナスタシアの息子よりも、もんのすごーーーーい高いハードルを自分に課して生まれてきた、いわばエリートなんだよ。だってそーでしょ、最初っから自分を否定せよと教えられてきたんだ。そこから自分を肯定することを学んでいくのって、すごい力を産み出せることじゃない?ゴムはすごくひっぱられると、おもいっくそ反対方向に飛んでいくじゃない。それそれ。
やまんばが今夢中になってることは、自分を肯定することなんだ。
ばかばかしい?
ところがどっこい、これがものすごく奥が深い。
「ああ、それって自己肯定感があればいいんじゃないの?」
とかそんな次元じゃない。
自分をありのまま受け入れるとは、宇宙を知ることにも繋がるんじゃないかとおもっている。
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