2014年2月25日火曜日

人生うまいこといかなかったら、自分の観念をさぐれ



きのう、畑にいく途中で、近所で畑をやっているオヤジさんたちがいー感じで酔っぱらってるのに出会った。やまんばはその席に呼ばれて、いつのまにかいっしょになって、いー感じに出来上がっていた。高尾山を眺めて、うまい酒をいただいて、唄って、ジョーダン言い合って、そりゃーもー、たのしいひとときだった。

その夜。
寝ていると2回、腰に激痛が走った。
わしは考えた。「ああ、やっぱり来たか」
草っぱらの上で座ってたから冷えたのがいけなかったのかな。。。長いこといたからいけなかったのかな。。。お酒で冷えたのかな。。。
布団の中でまた腰にきちゃった色んな原因を探り始める。
そのうち、調子こいちゃったのがいけなかったんだ。。。楽しんじゃったのがいけなかったんだ。。。いいことがあると悪い事が起こる。やっぱりその法則が来たんだ。。。。

おっと、まてよ。
これって観念じゃないか?

腰に激痛が走った理由を考える。あれやこれや。
理由を考えてどーするのかというと、これからそーならないために、前もって心づもりをしておくのだ。だがちょっとまてよ。いつもそーやってきたじゃないか。前もって、ああならないよーにこーして、こーならないよーにああして。。。
ンで結局またやっちゃってるじゃないかー!

これって、考えた、からそーなっているだけじゃね?

わしらは、観念をつくる。
冷えた(A)からぎっくり腰(B)になる。
とゆー観念をもっている。
AとBは、ほんとうはつながってなかったりする。
冷えたと思っているから、冷えたようにみえる。
と、
ぎっくり腰になると思っているから、ぎっくり腰になる。
というだけなんじゃないか?
よくわからん?

じゃ、これはどーだ?
あたしはブス(A)だからケッコンできない(B)。とゆー考えを持っている人がいるとする。
AとBは、イコールでつながっていない。
だけどそのケッコンできない理由を、あたしはブスだから、というものに当てはめて考えている。

よし。観念をこれ以上分解できないくらい分解して考えてみる。

するとAとBは、分解できる。
A:あたしはブスだと思っているからブスのようにみえる。
B:あたしはケッコンできないと思っているから、ケッコンしていない。

それだけである。

AとBをつなげて考えてるから、ややこしくなるのだ。
自分の中で「信じている」ことが現象化しているだけなのだ。
だから、観念をこれ以上分解できないくらい分解してみるのだ。すると、Aとおもっているから、Aのようにみえているだけなのだ。
けっして、Aとおもっているから、Bになるのではない!(だって、やまんばは自分をブスだと思っているけどケッコンしているもの)


やまんばの中にものすごい量の観念がある。
冷えることはいけない。
ぎっくり腰になることはいけない。
わしは腰が弱い。
調子こいてはいけない。
たのしいことがあると、イヤなことが起こる。
わしは罪深いので、たのしいことが起こると、そのあとに罰を受けなくてはいけない。

これはぜーんぶ、
冷えることはいけないとおもっているから、冷えることはいけないと信じている。
ぎっくり腰はいけないと思っているから、ぎっくり腰はいけないと信じている。
わしは腰が弱いと思っているから、腰が弱いと信じている。
調子こいてはいけないと思っているから、調子こいてはいけないと信じている。
たのしいことがあると、イヤなことが起こると思っているから、たのしいことがあると、イヤなことが起こる。
罪深い人は罰を受けないといけないと思っているから、自分にそれに見合う罰を与えている。。。。。。

ただそれだけなのである。
「信じている」からそうなっているだけである。

ネガティブな観念もポジティブな観念もどっちもかんけーなく、「信じている」モノが現れて来るのだ。

これが観念が感情を作り、想像力をかき立てる瞬間なのだ。
けして先に感情があって、観念が作られるわけではない。

人生うまいこといかないときは、自分の観念をさぐれ。




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