2018年12月27日木曜日

静かな時間



年末。
みなさま、慌ただしい日々をいかがおすごしでしょうか。
やまんばは、ノンビリ生きてます。



とーちゃんが死んだって言うのもあるか。喪中だから正月の用意はしない。お飾りやおせち料理の準備や掃除や、新年を迎えるための慌ただしい準備。
そんなたいへんさから解放されて、今真空状態へ。


昔はよくやったなあ、お正月準備。
NYでは、しめ縄の代わりに近くの公園で盗んできた木の枝のリース作って飾った。
今は町内会からもらう、ペラッとした長方形の紙に印刷された角松のイラストをドアにぺたん。(今年やめとくかw)



四季折々に行なわれる行事のほとんどが、健康や幸福を願ってのものだ。
豆まき、おひな様、端午の節句、お盆、お祭り、お月見、、、。

新しい年にきれいに飾ったお料理とお供え物で神さまを迎える。
お料理の数々には、いろんないわれがある。マメマメしく、長寿、子だくさん、よろこぶ、縁起物、、、、。
伝統なのでさぞかしうやうやしいものかと思うけど、よくみると語呂合わせだったり、ダジャレだったり(ダジャレかい!)
そうやって、笑いあり、信仰ありの、神さまを迎える楽しい行事なのだろう。

やまんばもその縁起物にあやかって、必死でいろんなものを作ってきたなあ~。
除夜の鐘が鳴るまでにおせちを作り終えねば!
元旦に洗濯物などしてはいけない!
などなど。



ふとどきもののやまんばは気がついた。
それが観念だったとは。。。
人々の幸せになりたい!という強い思いが、いろんな形にあらわれていたのだ。

これをやっておけば、嫌なことは来ない。
これをやっておけば、神さまを味方にできる。

そういう心の願いと、神への怖れの中で、始めたことだったのだろう。
それが長い年月とともに、美しい姿に変化してきた。
今はそれが日本の形、伝統にまでなった。



うすうすはわかっていたが、それをやめていく勇気がなかった。どこかで神さまが観ているかもしれない。これをやらないことで、来るはずだった幸せが、来ないかもしれないと。

ずっと関わってきた、いわゆるスピリチュアルもにたようなものだった。
パワーストーンとお札、パワースポットと神社。
嫌なことは来てほしくない。いいことだけが来てほしいと願う姿。


しかし現実はやって来る。
いいことも、悪いことも。
いまはおもう。
それは本当に悪いことだったのか?
すべては気づきのために起こった出来事じゃなかったのか。
それをなぜ回避する?と。


その視点でさぐってみると、行事に必要性は感じなくなってきた。
「これ、本当に自分に必要か?」
ひとつひとつ自分に尋ねていく。
必要でないものが、ひとつひとつ増えていった。



今は何もするものがなくなっている。

幸せを呼び込むためにすることなどない。
幸せはいやでも今ここにある。
ただそれに気がつかないフリをしているだけだ。

幸せはここにないという怖れが、
私に行事という行為をさせていただけだった。
もしやるとすれば、本当にやりたいことしかしないだろう。


用事がなくなる。

静かな時間が増えていく。

ことことと、ストーブの上で鍋が鳴る音がする。




2 件のコメント:

おp さんのコメント...

3年前に山姥さんと同じ状態になりました。
そこで気が付いたことが一つ。
この世には仏も神もいないということ。
だから怖いものなしとなった。
坊主や神父はては医者なんでのは人の弱みに付け込んだ輩ではないかと気が付いたわけです。
清々した気分はいいもんです。
縛りのない自分に嬉々としています。
山姥も早くおなりなさいね。
おせっかいなじじより。

つくし さんのコメント...

おpさま。

コメントありがとうございます。
およそ人間がつくり出した神や仏は、オドシの材料に使われます。
人々は恐ろしい神の前で、怖れおののき、人生を過ごします。
医療もまた、新しい宗教と言えるほどに、私たちに多大な影響を与えていますね。
そのからくりを知ったおpさんは、すばらしいとおもいます。

ありがとうございました。