2018年10月19日金曜日

心という車の運転免許



バイト先で知り合う若い女の子たちがおもしろい。

まだ二十歳前後。彼女らの母親は私より若い。そんな彼女たちとしゃべっていると、ある共通項に気がつく。

ウザイ、イラつく、キレル、ウケる、などの感情を表現する機会が多いためか、彼女らは自分が何を感じているのかをつねに気づいているようだ。

そのため、逆に言えば、その自分の感情が大きく心の中を占め、ふりまわされやすくなっている。クローズアップされた自分の感情に気がつくと、それを否定しようとするため、二つの感情をもつことになる。
1。イラつく自分
2。それを否定してイラつく自分。
この二重苦で、自分というものをうっとおしいとまで感じている。

また別の子は、そういう自分をおもしろがっている。
どっちにしろ、自分の中で発令される感情に気がついているのは、時代が変わって来ているからか。



このことはとても面白い現象だと思う。
通常大人の私たちは、自分自身が感情的になっていることにあまり気がついていない。
その感情と自分が一体化してしまうからだ。

本当は、どこかで気がついてはいるが、感情的になってはいけないと言う、根深い道徳観念が、それをおさえこむ。
もしそのことを指摘しようものなら、火のようになって怒る(笑)。



私たちは、外のものを見ることを学んできたが、心の中を見ることをまったく学んで来なかった。
例えていえば、車の運転技術はあるが、心という車の運転免許をもってないようなもんだ。

せいぜい動き出す車の前に立ちはだかり、フンムムム~~~っ!と、力づくでおさえこんで、感情が表に出ないようにするという、原始人のような(原始人さん、失礼)、心の車のコントロールしかしてないのだ。

ギアやブレーキやアクセルがあるように、心にもちゃんと仕組みがある。今こんなにも精神を病む人たちが増えているのだ。その仕組みを真剣に学んでいく時代に入っていると思う。


でもいかんせん、感情について話しをすれば、人はすぐさまぱたっ!と心を閉ざしてしまうぐらい、感情に対してあまりにもアンタッチャブル。
日々の忙しさの中で、感情が動く自分を見ないようにする。
はたまた誰かにグチって、気が晴れたかのように装う。
おさえこんだ感情はいつのまにか、病気や精神的な病いなどの形になって現れてくる。



ほんの少し、意図的に静かな時間を作り、自分の心に聞いてみる。
「今、私、何を感じてる?」と。

その感じているものに抵抗をせず、ただ受け取ってみる。
その感情は、決して悪いことじゃない。
あなたが生きて来たこれまでのいきさつが、
どうしようもなく持たざるを得なくて、持った感情なんだ。
それを肯定する。

いいよ。感じて。
いいよ。怒って。
いいよ。悲しんで。
いいよ。いいよ。いいよ。。。

そのほんの少しの時間が、心の扉を開いていく。
心が溶解していく。


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