2017年3月6日月曜日

つく汁、飲んでみる?


バイト先じゃ、わたしは「無能な人」。

時間までに商品を作れない。
きれいな商品に出来ない。
たよりない。

かつてニューヨークでガンガンにペーパーバックの表紙を飾っていたこのわたしが「無能な人」(笑)。


でもほんとうは、小学校の頃から「のろま」で通っていた。
何やっても遅い。何やらせても出来ない。そんな存在だった。

それががんばって、がんばって、がんばってやってきたが、ここにきて、
やっぱりもとの「無能な人」にもどった。

なーんだ。
やっぱりここに落ち着いたか。

それがなんだか、ここちよい。

バイト先じゃ、わたしは出来ない人。
だから期待もされない。



今まで、がんばってき過ぎたなあ。。。そうしみじみおもう。
あの「のろま」なわたしが、よくぞここまで。。。と。

仕事の出来ない人は、ある意味、必要な存在じゃないかと思うんだ。

なぜかとゆーと、ちょっとムリをすれば、できる。
ホホーできたか。
じゃあ、もうちょっとムリをすれば?
お!出来るじゃないか。
じゃあ、もうちょっと、もうちょっと。。。。
と、どんどんムリが重なる。

そうやってこの今の社会は成り立っている気がする。
その結果が、心もからだもぼろぼろになる。そんな現状を作ってきたのではないか。

アマゾンの無料宅配が、ヤマトの宅配さんを圧迫している。
わたしも日々ヤマトさんに頼んでいるけど、見るからにたいへんそう。

ちょっとがまんすれば。。。ちょっとむりすれば。。。ちょっとがんばれば。。。
そういう、ちょっとちょっとの頑張りが、出来ちゃう結果が、これだ。


わたしゃ、がんばらない。
いや、がんばれない。

いや。がんばろうと思えば、がんばれる。
だけど、それをやって、どうなる?
もっときつくなるだけや。

私らの時代は、がんばることが美徳だった。がんばって、いい結果を出す。これがなによりの報酬。

だが、そこにあるのは、ただ自分が「出来る人」とおもえる満足感を味わえるだけ。

そのときは、まわりも「よくがんばりました」と、ほめてくれるだろう。だけど、それは一時のこと。そのすぐ後にまたほめてもらうためにがんばらなくてはならない。それはきりがない報酬じゃないか?
そしてそのあとは?
ただ、自身のからだのきつさが残る。

満足感や達成感のためだけに、自分の身体を犠牲にするのかい?

わたしゃ、「出来る人」をやめる。
「出来る人」を演じるのをやめる。
出来ないままにいる。
本来の自分でいる。

そういう人がいてもいいんじゃないか?
無能な人、仕事場で迷惑な人、空気読まない人、そんなひとがいる。
そういう人が、結果的に、どんどん加速度的にきつさが強くなって行く、この神経質な社会に、ストップをかけて行く。このままでいいんだろうか?って、疑問を投げかける。

そして、じょじょに社会は変化して行く。
もっともっとの時代から、
結果結果の時代から、

人の本当の幸せとは何か?
モノではない、幸せとは何か?
と、考えはじめる時代へと。


そういうことの始まりをおこす無能な人を「つくしる」という。

「つく汁」、飲んでみる?

(いらんいらん)



絵:「江戸めしのすすめ」/MF新書表紙



0 件のコメント: