パワースポットに行ったり、パワーストーンを持ったり、アファメーションをしたり。
スピ系の心の癒しは、頭痛をとめるのに頭痛薬を飲んだり、つらいものを一時的に改善させる対処療法に似ている気がする。
スピの心の癒しも頭痛薬も一時的なものだ。
神社にお参りをして、
「ああ、心が清らかになった。あしたっから、さあ頑張ろう!」
というのと、頭痛が絶えられないから薬を飲んで、
「ああ、楽になった。さあ、今のうちに仕事を仕上げよう!」
というのは、同じ発想から来ている。
今ある不安や苦痛を、外の何かで変えてもらうことだ。
一時的に楽になったそのときはいいが、根本的な治療ではないから、またその苦しみはやってくる。そうすると、またパワースポットや、呪文や、薬に頼ることになる。薬もスピも依存的になる。
外の何かで変えてもらおうとすることは、今ある何かに抵抗していることなのだ。
今ここにある不安や、今ここにある痛みを取り除こうとして、抵抗している。
不安や痛みは「あってはいけないこと」と思っているから、それに抵抗しているのだ。
人は不快を感じると自動反応のようにそのことに抵抗する。
そして無意識に、それを変えてくれる「なにか」を探し始める。その先にあるものが、先生だったり、セミナーだったり、薬だったり、神社だったり、呪文だったり、アファメーションだったり、パワースポットだったりする。
だがそれはきりがない。外の何かに治してもらっては、またもとの不安に戻り、また治してもらっては、もとの不快に戻っていく永遠の循環。。。。
その方向転換をしよう。
もし本気でその循環を止めようと思うなら、対処療法をやめよう。
不快がおこったとき、その不快に抵抗をせず、その不快と向き合う時間を持とう。
そのためには、不快を感じている自分に気がつくこと。不安な気持ちを持っているその瞬間に気がつくことだ。
そして次の瞬間、「何かをしようとしている自分」に気がつくことだ。
それは頭痛薬やパワーストーンを探しに行こうとする自分。
「こんなときはアファメーション、アファメーション。。」と、なにかの言葉を唱えることを探している自分。
何かをして、たとえばテレビを見るとか音楽を聞くとか、今の不快を「なかったことにしよう」とする自分。
その不快をだれかのせいにして、自分を正当化しようとしている自分に気がつくことだ。
抵抗に気がつき、その不快から逃げようとしている自分に気がつき、何かをしようとしている自分に気がつく。
それはおそろしいことかもしれない。
逃げたくて逃げたくて、その場にいられないかもしれない。
だが、そこにいよう。
そのことがどれだけパワフルなことかわからないだろう。
そりゃそうだ。そんなことだれも教えなかったのだもの。
学校じゃ、「問題があったら、解決策を探しなさい」と、人生の最初の頃に教わって来たのだもの。
生徒たちは「問題なら、そのままにしときなさい」とはいわれなかったのだから。
だが「そのままにしときなさい」なのだ。
そのまま、不快と向き合い、不快とともにあり、不快を味わう。
その時間こそが、最も自分をパワフルにさせていく。
不快にさせた誰かにえんえんと文句を言っている、その頭の中の言葉に、耳を傾けなさい。ただ聞いていなさい。訴えてくる小さな子供の声を、やさしく聞いてあげなさい。
不快でブルブル震えるからだをただ感じていてください。苦しさのあまり、頭痛薬を飲む自分に気がついていてください。そこに罪悪感も持たないように。飲んでホッとしている自分にも、「ああ飲んでしまった」という思いにも、ただ気がついていてください。
ただ気づいている。
そういう時間を意識的にもつ。
すると、心の奥に、なにかパワフルなものを感じるはず。
問題の解決策が、今まで考えた方法ではない形で、ふいに頭に浮かぶ。
思考で考えついたものではない、なにかがやってくる。
その経験が、何もしないことの意味を教えてくれる。
言葉ではないなにか。思考ではないなにかがある。
あなたはもう外の何かに頼らなくなる。
絵:「自画自賛力」MF新書表紙イラスト
(自画自賛ってのも、ある種のアファメーションだよな。ほめ言葉によって自分を奮い起こさせる。だけどそんなものもいらない。)
(自画自賛ってのも、ある種のアファメーションだよな。ほめ言葉によって自分を奮い起こさせる。だけどそんなものもいらない。)
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