ひとってさあ、比較検討ばっかしてんだよね。
とくに近くにいる人間には、はげしく比較検討する。
あんたのほーが悪い。
あたしのほーが稼いでいる。
ウチの畑の野菜のほーがでかい。
ウチの畑の野菜にゃ、ムシがいない。
あたしのほーが病気が重い。
あたしのほーが不幸だ。
あたしのほーがびんぼーだ。
あんたが、あたしが、きんじょが、、、、
比較検討しなけりゃ、争いごともおこらないだろーに、わざわざ比較ケントーしては怒る。比較すりゃするほど、相手がうとましくなり、身近にいりゃいるほど、激しく気になるもんだ。
しかし現実は、他人の指一本動かせないのに、相手の悪いところあげつらったところで、「フン!」と言われて無視されるか、「倍返しだ!」っておもいっきり反撃食らうのがオチである。すると力で勝負する次元に入るから、口で言い負かされる方が泣き寝入りをすることになる。へたに力づくで真っ向勝負かけたら訴えられるし。。。
そのイライラは、より遠くて大きな存在に向かう。
セーフが、国が、地球が、、、、
ムリもない。ずっとちっちゃいときから
「比較ケントーして、がんばりましょう」
と、おしえられるんだもの。
そりゃ、成績が上がったり、かけっこで一等賞になるのは、達成感があって「生きてるぜ!」と実感が持てる。
しかしこの世は1つ価値観が作られると、相反するものも同時に生んでくる。たとえばこれが正しいとされると、そうではないものはまちがっているという価値観を生むので、一位にならなかった時や、成績が下がったときの屈辱感も生むのだ。
じゃあ、比較ケントーしてはいけないのかって話になるんだけど、そこじゃない。
していーの。そうではなくて、そのしくみを知る。
比較ケントーすると必ず勝った負けたを生む。
その結果に一喜一憂する自分に「気がついている」ことなのだ。
わしらは方法論をどこかからもらってくると、その方法論をやろうとする。成功法もダイエット法もなんでも。納豆がやせると聞けば、スーパーから納豆が消えるように。あれさえすればこれが解決すると信じている。
しかしそんな方法論は使えないのだとおもう。
方法論をくっつけるんじゃなくて、気がつくことなの。
ああ、そっか。比べるってそーゆーことなのか。。。と。
そこからがんがんに固く結ばれている心が、ゆっくりとほどけはじめる。
すると自分が何にこだわっているのか、
そしてどうしてそれにこだわっているのか、
そしてなにを怖がっているのかが見えてくる。
比較ケントーするのは、自分がここにいていいというお墨付きをもらおうとしている。でもここにいていいというお墨付きは、もうすでにもらっている。
なぜなら、そこにいるってことがそうだからだ。
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