高倉健さんが逝った。
このところのテレビでは、健さん主演の映画が目白押し。昭和の匂いがする。テレビが昭和の匂いを放つ。
大スタアがなくなると、いつも繰り広げられるお決まりのドラマがある。
だが今回は、亡き人を偲んで泣き崩れる役者さんたちがいない。インタビューに応じる大俳優さんたちは、どこか清々しく健さんを語る。死亡発表もずいぶんあとになってからだったから、そのドラマはすでに終わらせていたのだろう。
もともとそうだったのだろうが、近年特にメディアは感情に訴える演出をする。公平な立場にたつ(と、される)ニュースでさえも、あからさまに誰が悪者であるかを演出するくらいだ。当然悲劇とされるものは、おおいに、何度も、畳み掛けるぐらい、連続放送する。それを見た一般庶民は同じように泣き、同じようにフンガイする。
だから今回は人々は泣き崩れることもなく、清々しく健さんを見送ることだろう。
死とは本来そのようなものだったのかもしれない。
誕生はよろこびで、死は悲しみ。
そう思ってきたが、アチャラの世界では、誕生はとてつもない苦しみと努力の連続の結果らしく、死は服を脱ぐようにあっけらかんとしたものだという。
わしらが持っている生と死のイメージは、本人をおもってのそれではなく、それを見た他人からの視点なのではないか。
死を忌むべきものとみるのは、残されたものの勝手な解釈なのではないか。その解釈は人から人へと伝えられ、それがとーぜんのことのよーになっていく。
今回のテレビやニュースの演出を通して、もののとらえ方というものは、解釈次第でいくらでも変わることができるものだということを教えられた。
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