2014年11月29日土曜日

自分で自分をほどく



生活の不摂生が病気を生むっていうけれど、やまんばは別のことを考える。

気持ちがむしゃくしゃして酒を飲む。
イライラしてお菓子を食う。
不安がチョー点に達して夜通しおどりまくる。
その結果が病気だという。
するとお酒がいけないので、お菓子がいけないので、むちゃぶりがいけないので、それらをヤメなきゃいけないという。
そこ、途中じゃね?

そもそもなんでむしゃくしゃするかってところだ。そもそもなんでイライラするのかってところだ。そもそもなんで不安になるかってところだ。
そもそも不摂生にしなくちゃいけない理由があるわけだ。

うつだってそーだ。
それがカラダに出る人と、心に出る人のちがいだけだ。

きっと、みんな心の中でむちゃくちゃ考えている。
心の中が、言い訳や、正当化や、他人や自分をなじる言葉でパンパンに膨らんでいるはずだ。
「ったく、なんであたしが。。。」
「おいおい。かんべんしてくれよー」
「ああ、またやってしまった。。。おれはばかだ。。。」
「$%&”~%#%$&!!!!!」
エアー演説しまくり。

そんなとき自分の感情に気がつく。怒ってたり、不安がってたり、寂しがってたり。。。
するとだいたいは「あっ、おれ怒ってる!」と思った瞬間、「これはイケナイんだ!」といって、怒りや不安を封じ込める。寂しさを何かで紛らわす。
酒、友だち、ばか騒ぎ、スマホでつながる。。。

問題は怒りなのだ、問題はお酒なのだ、問題はむちゃぶりなのだ、だからそれをヤメるのだ。
これが今までの方法論。
でもそれだけじゃ、どーにも解決になっていない。



感情は自然なものだ。
その自然なものが生まれてくることを、なかったことにするから苦しいのだ。むちゃをやっちゃうのは、それを上から押さえつけているからなのだ。
じゃあ、発散しろというのか!人迷惑じゃないか!って?

発散じゃないんだ。酒飲んで発散するのでもない。酒飲んで発散できるとおもっているけど、じつは発散なんかしていない。一時的に忘れるという手法を使っているだけ。

自分から自然に出てくる感情に正直に気づいて、それを自分でがっちりうけとめる。
これがすべてといっていいんではないかとやまんばはおもう。

わしらは生まれてから、あらゆる観念をしょい込む。
『正しい』『まちがっている』の観念。
その基準で人や世界を見ると、たいていまちがっているものを発見する。そのとき感情が生まれる。たまに正しいものを見つけては感情が生まれる。

これがこの世の醍醐味だ。感情体験をしにきているようだ。
それが目的でもあったのだが、いつのまにかその体験がおもしろ過ぎて夢中になり、旅の途中だったのをすっかり忘れて、その中にどっぷりはまりこんで抜けられなくなっているのがわしらのようだ。
苦しむのは醍醐味のはずだったのが、「そんなの聞いてない!」といっておこる。

自分の中で起こってくる感情をジッと観察してみると、それが波のようにうねりがあるのを見る。それをただ観察すると、やがて消えていく。感情はつねに動き回るエネルギー。一瞬たりとも止まっていない。

「ああ。。。おれ、今怒ってるんだな。。。」
とじっと自分を見つめる。
次の瞬間、言い訳が始まる。誰にどう怒らされたのか。
だけど、それもほっておく。ただ自分の怒りだけを見つめる。

わしら現代人にないのは、この静けさだ。
電車に乗ると、ただ座っている人がいない。寝ている人以外は、みんなスマホを見ているか、本を読んでいる。心の中がつねに言葉で満たされている。言葉は次の感情を生む。その感情に乗りはするが、それを見つめることはしない。


自分に起こっている感情だけを見つめると、自分がどんな観念をもっているのかがわかってくる。
「ああ、この観念があるから、今までおれはこれに怒ってばかりいたんだ。。。」
と気がつくだろう。
「あたり前だろ!そんなことに怒らないヤツなんているか!?」と、またその怒りに乗っかるのとはちがう、何かがあなたに起こっている。
するとあなたはその観念の「正しい」「まちがっている」のどっちか片方に振れるのではなく、どちらにも立たないところにいる。
そのとき、小さな鎖がほどける感覚になる。

わしらは自分にいっぱい制限をかけている。
自由になりたいという衝動は、その目に見えない制限をつねに感じているからだろう。だけどそれは、環境や社会やシステムが変わってくれれば、勝手にほどけてくれるものでなく、自分で自分をほどくことだったのだ。



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