2014年11月1日土曜日

人にOKをもらうために生きる人生



やまんばは人の目を気にする。
人がどー見ているか、人がどー私を裁くか、人にどー好かれるか、人がどー私の仕事っぷりを判断するか、人に何か迷惑かけていないか、気にしている。

およそやまんばがおこす行動のモチベーションは、人の目が基準だ。
家の中にひとりでいて、他人がいなくても気にしている。
今、この部屋に誰かが入ってきてこの部屋を見たら、どう思うか。汚い。やばい。そうじしなきゃ、と。
ほらね、人の目だ。
今この件で聞きたいことがある。けど電話したら迷惑だろうか。今仕事で忙しいかもしれない。できない。でもあとから迷惑かける。ううう、どっどーしよー。
ほら、人の目。

びっくらこいた。
自己嫌悪したり罪悪感もったりしている自分は知ってたよ。だけど、そこまで人の目を気にしていたなんて、チーットも気がつかなかったんだよ。
それがさあ、おそろしーことに、その自己嫌悪も罪悪感も「人の目」が前提だったんだ。

よーかんがえたら、あたり前田のクラッカー。
もし無人島に、いや、この世にやまんば以外の他人が存在してなかったら、やまんばは自己嫌悪するかね?罪悪感もつかね?

しないね。じぇったいしないね。
パッパラパーになって、好きなこーとして遊ぶもんね。「あたしはどーみられてるんだろーか」なんてびくびくしない。
だいたい、誰に「見られる」んだ?



人は人の評価を気にしている。ほめられるとうれしいものだ。君、才能あるねえと言われると天にも昇りそーになるものだ。それは他人に「あなたはここにいていいよ」と、お墨付きをもらっているかんじがする。だから人は人にいいことをしようとする。

だが同時に、ほめられなかったらどうしよう、きらわれたらどうしようと言う相反するものの恐怖も生む。
だから人は他人の目をつねに気にする。それはいつでもどこでも他人にここにいていいという許可をもらいたがっているのだ。

そーすると、ひたすら許可をもらうために人の目を気にしつづけることになる。オッケーをもらって認めてもらった瞬間は「よしっ!」ってうれしい。しかし次の瞬間から、また認めてもらうために行動を起こすのだ。

これ、きりがないのだ。
オッケーをもらうために次々に行動を起こしていくだけの人生。。。。
やまんばはひたすらそれにエネルギーを注ぎ続けているのであった。
すごいエネルギーの消費。ほとんど無意識のうちに息するようにやっている。

それははたしてほんとうの私の人生を生きているんだろうか。


ソフトバンクホークスが日本一になった。ものすごくうれしがる。
「やりました!努力の結果が認められた!万歳日本一!そしてまた明日っから新たな一歩が始まるのです!」
とアナウンサーは言った。
おいおい。
努力して勝って、やった!ってよろこんで、んでまた次の勝利に向かうのかい?

勝ちました。
よろこんでもらえましたでしょうか。
ありがとう。
ではまた次の勝ち負けに向かって生き続けます。

個人も団体も、みんな同じパターンで生きているんだね。


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