2013年8月17日土曜日

否定はエネルギーを消耗する



否定は、エネルギーを消耗する。
エネルギーを消耗?

なにかしようとする。
すると、そくざに
「そんなことしていいの?」
と、もうひとりの自分が否定する。

するとそれを聞いた自分は、
「え?やっちゃいけないの?」
と、今やろうとしたことを躊躇する。

「そうでしょ、そんなこと常識では考えられないよ。やるだけバカってもんよ」
そのとき、やろうとした自分を常識という枠から見始める。

するとたいてい、
「そっか。そうだよな。それやったって、意味ないし」
という気分になる。
ほんでもって、最初にやりたかったことをやめてしまう。

だが最初に何かやろうとしたそのアイディアは、エネルギーを持っている。そのエネルギーは放出されたがっている。
ところが、その放出されたがっているエネルギーを、否定という『理性』が止めてしまうのだ。

出ようとするエネルギーがある。
それを止めようとするエネルギーがある。
だが、作られたエネルギーは、どっかで出ようとする。だからそのたび、否定する自分が、それを止めに入るのだ。

つまり、出たい。止める。出たい。止める。出たい。止める。出たい。止める。。。。
と、延々とやっているわけだ。

そうやって人は二重苦のエネルギー消耗をやっているのだ。地下から溢れてこようとする地下水を、両手で必死でおさえて出てこないようにしているようなもんだ。

これ、疲れるに決まってる。

3 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

たまにダダ漏れの人もいて、それはそれで疲れますけどね・・・(笑)

つくし さんのコメント...

ダダ漏れって?
否定することがダダ漏れ?

あ、出ようとするエネルギーが、まわりにダダ漏れって意味?
そりゃ、はたの人は大変だろうね(笑)。

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

>出ようとするエネルギーが、まわりにダダ漏れ
それそれ!