あるところに、ゲームがありました。
そのゲームは「肉体を持つ」というゲーム。
肉体を持つとは、制限をつくること。
それまで飛んだり、はねたり、消えたり、現れたりって何でも出来てたんだけど、飛ぶのも道具を使わないといけないし、消えるためには、なにかのうしろに隠れないといけないし、ビーフステーキが食べたい!っておもったら、わざわざ牛さんを殺しにいかないといけないような面倒なゲームなのだ。
そのゲームに参加した時、思考さんという付属品も持って来た。
なんでかっちゅーと、肉体という制限のある物質に入ったからには、むちゃくちゃな使われかたしたらすぐ壊れてしまいます。
それで「ああ、ぼっちゃま。それはご無体な。ぼっちゃまのお身体はだいじに使ってくださいまし。」
というような、口うるさい乳母みたいなものを用意したわけだ。
「持ってきた」というからには、持ってくる「だれかさん」がいたわけだ。肉体と、付属品の思考というものを「持ってくる」だれかさんが。
だれやねん。ぼっちゃまとよばれるやつはだれやねん。
肉体を持つというゲームに、ある程度のストッパーの役割をするはずだった付属品は、いつのまにか主導権を持ち始める。
乳母は基本、心配性。ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと四六時中心配し続ける。そして転ばぬ先の杖として、予防策や未来のための計画を立てさせる。
この乳母、程度というものをしらない。
どこまでも心配して、どこまでも転ばぬ先の杖を用意する。
ぼっちゃまはついに乳母と一体になってしまった。乳母がぼっちゃまに乗り移ったのだ。
かくしてぼっちゃまは自分の正体を忘れてしまい、これがゲームであったことも忘れてしまうのでした。
ちゃんちゃん。
(終わるんかい!)
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