わしらは、自分を否定しまくっている。
シミがあってはいけない。
シワがあってはいけない。
太ってはいけない。
食い過ぎちゃあいけない。
のみ過ぎちゃあいけない。
怒っちゃあいけない。
寝過ぎちゃあいけない。
遅刻しちゃあいけない。
さぼっちゃあいけない。
老けちゃあいけない。
なにか行動するたびに、
「あ、食い過ぎちゃいけない」
「あ、のみ過ぎちゃいけない」
「あ、怒っちゃいけない」
と、ほとんど自動的に、反射的に、自分に自分がやることに、いちいち否定して、訂正して、自分を戒めてかかっている。
ためしに自分がなにかをする時、その時とっさにでてくるおもいを掴んでみるといい。こんなことをぶつくさいってる自分に気がつくはずだ。
それはあまりにも小さく、一瞬で、まるで自覚できない。だけどしゃべっている。そしてその瞬間、かちっとどこかがこわばっている。
おいしいものを食べて幸せな気分になる時、
「うわ~、おいしいなあ~」というおもいのすぐあとに、
「オイ、食い過ぎるなよ。太るぞ」という声を聞く。
すると、一瞬緊張が走り、
「ああ、食べ過ぎないようにしよう」といってる自分がいる。
そしてその食べているときのしあわせ感が、どこか不完全燃焼のまま、食い終わる。
その言葉はだいじだ。
だって、それをしないと、ニンゲンどこまでも自堕落で、どうしようもなくて、路頭に迷って、ニンゲン失格になるからだ。
という。
はて。ほんとにそうだろうか。
ためしにやってみるといいとおもう。
食い過ぎてみるといい。飲み過ぎてみるといい。寝過ぎてみるといい。さぼってみるといい。
どうしようもなく、どこかで必ず止まってしまうはずだ。
おいしいものをたらふく食べても、そのうち飽きてくるし、飲み過ぎるといやになるし、寝ることさえも飽きてくる。さぼってることさえも、飽きてくる。なにかがむしょうにやりたくなる。
ニンゲンは元々ちゃんとストッパーがついているようだ。塩っから過ぎたら、食べられないように。
そこをもっと手前で「ダメだダメだ」っていってくるのが、思考さんというヤツだ。思考さんはわしらにダメだしをだすことによって存在できる。
ほんとはわしらはひとりで完全に自立できてるんだが、口うるさい乳母のような思考乳母にふりまわされているのだ。
やまんばは、その思考乳母の声に耳を貸さなくなってきた。
「あ、それ、だめ」
「ああ、もう、それもだめでしょう」
という声に、
「あ、そ」
「あ、また言ってらあ」
って、ムシしはじめたんだ。
すると楽になった。すこしづつ、自分が自分に『制限を与えていた』んだってことに気がついてきたんだ。その制限は、思考乳母がやまんばにしかけていたことだったんだってわかってきたんだ。
わしらは、ほんとは、思考、じゃない。
今までその思考が、
『思考=自分自身』
っておもってたんだけど、ほんとは、
『思考=道具』
であって、やまんば自身じゃなかったんだって。
思考はうるさいほど、否定してくる。その否定のことばにのっかると、自分が小さくなっていく。
だけど、その否定に乗らないと、自分が本来の姿を認められ始めるんだ。自分が自分のままでいていいことに気がついてくる。けっきょく自分を「肯定」すること、受け入れることじゃん。
『ありのまま』って、そのことだったんじゃないか!って最近おもうんだな。
0 件のコメント:
コメントを投稿