2017年3月12日日曜日

スピは対処療法


パワースポットに行ったり、パワーストーンを持ったり、アファメーションをしたり。

スピ系の心の癒しは、頭痛をとめるのに頭痛薬を飲んだり、つらいものを一時的に改善させる対処療法に似ている気がする。
スピの心の癒しも頭痛薬も一時的なものだ。

神社にお参りをして、
「ああ、心が清らかになった。あしたっから、さあ頑張ろう!」
というのと、頭痛が絶えられないから薬を飲んで、
「ああ、楽になった。さあ、今のうちに仕事を仕上げよう!」
というのは、同じ発想から来ている。
今ある不安や苦痛を、外の何かで変えてもらうことだ。

一時的に楽になったそのときはいいが、根本的な治療ではないから、またその苦しみはやってくる。そうすると、またパワースポットや、呪文や、薬に頼ることになる。薬もスピも依存的になる。


外の何かで変えてもらおうとすることは、今ある何かに抵抗していることなのだ。
今ここにある不安や、今ここにある痛みを取り除こうとして、抵抗している。
不安や痛みは「あってはいけないこと」と思っているから、それに抵抗しているのだ。

人は不快を感じると自動反応のようにそのことに抵抗する。
そして無意識に、それを変えてくれる「なにか」を探し始める。その先にあるものが、先生だったり、セミナーだったり、薬だったり、神社だったり、呪文だったり、アファメーションだったり、パワースポットだったりする。

だがそれはきりがない。外の何かに治してもらっては、またもとの不安に戻り、また治してもらっては、もとの不快に戻っていく永遠の循環。。。。



その方向転換をしよう。
もし本気でその循環を止めようと思うなら、対処療法をやめよう。


不快がおこったとき、その不快に抵抗をせず、その不快と向き合う時間を持とう。

そのためには、不快を感じている自分に気がつくこと。不安な気持ちを持っているその瞬間に気がつくことだ。

そして次の瞬間、「何かをしようとしている自分」に気がつくことだ。
それは頭痛薬やパワーストーンを探しに行こうとする自分。
「こんなときはアファメーション、アファメーション。。」と、なにかの言葉を唱えることを探している自分。
何かをして、たとえばテレビを見るとか音楽を聞くとか、今の不快を「なかったことにしよう」とする自分。
その不快をだれかのせいにして、自分を正当化しようとしている自分に気がつくことだ。

抵抗に気がつき、その不快から逃げようとしている自分に気がつき、何かをしようとしている自分に気がつく。



それはおそろしいことかもしれない。
逃げたくて逃げたくて、その場にいられないかもしれない。
だが、そこにいよう。
そのことがどれだけパワフルなことかわからないだろう。
そりゃそうだ。そんなことだれも教えなかったのだもの。
学校じゃ、「問題があったら、解決策を探しなさい」と、人生の最初の頃に教わって来たのだもの。
生徒たちは「問題なら、そのままにしときなさい」とはいわれなかったのだから。

だが「そのままにしときなさい」なのだ。
そのまま、不快と向き合い、不快とともにあり、不快を味わう。
その時間こそが、最も自分をパワフルにさせていく。

不快にさせた誰かにえんえんと文句を言っている、その頭の中の言葉に、耳を傾けなさい。ただ聞いていなさい。訴えてくる小さな子供の声を、やさしく聞いてあげなさい。
不快でブルブル震えるからだをただ感じていてください。苦しさのあまり、頭痛薬を飲む自分に気がついていてください。そこに罪悪感も持たないように。飲んでホッとしている自分にも、「ああ飲んでしまった」という思いにも、ただ気がついていてください。


ただ気づいている。
そういう時間を意識的にもつ。
すると、心の奥に、なにかパワフルなものを感じるはず。
問題の解決策が、今まで考えた方法ではない形で、ふいに頭に浮かぶ。
思考で考えついたものではない、なにかがやってくる。
その経験が、何もしないことの意味を教えてくれる。
言葉ではないなにか。思考ではないなにかがある。

あなたはもう外の何かに頼らなくなる。


絵:「自画自賛力」MF新書表紙イラスト
(自画自賛ってのも、ある種のアファメーションだよな。ほめ言葉によって自分を奮い起こさせる。だけどそんなものもいらない。)

2017年3月8日水曜日

モチ粉ケーキをつくってみた



むかーし、ニューヨークで「モチ粉ケーキ」とゆーものを作って、毎日食べていた。

なぜかっちゅーと、あっちじゃ大福は贅沢品。ときどきジャパニーズグロッサリーにいって、憧れの高ーい大福を買ってきては、その一瞬だけ味わって終わりだった。

そのフラストレーションを解消してくれるモノが「モチ粉ケーキ」!

アメリカのスーパーに安く売っているモチ粉に、牛乳やら、小豆やらをまぜまぜしてオーブンで焼くだけのシンプルなお菓子。だけどまわりのカリカリにこげたのと、中のモッチリした感触が絶妙なお菓子だったのさ。

一度作っては、小分けにして冷凍庫にいれ、そのつどオープンで焼き戻して、カリッカリのもっちもちにして、それが朝ご飯。

今日はなぜか上新粉があるのを思いだして、モチ粉の代わりに上新粉で(なんと贅沢な)、モチ粉ケーキもどきをつくってみたわけさ。

ダンナが仕事から戻ると
「お!モチ粉ケーキの匂いだ!」と気がついた。鼻オンチのダンナでもさすがにあの匂いはわかったか。

出来上がって、さて味見。
本来のモチ粉ケーキより上品なお味になった。これがいーんだか、悪いんだかわからぬ。
だけど思い出の逸品に、感無量。

これがわたしの誕生日プレゼント。
56歳、おめでとう。
かあちゃん、ありがとう。

写真がヘタ過ぎてぴんぼけやし、じぇんじぇんあかん。
とりあえず「こんなやつです」と、のっけてみる。
ご笑覧ください~w


底の方にあるのが、あずき。


2017年3月6日月曜日

つく汁、飲んでみる?


バイト先じゃ、わたしは「無能な人」。

時間までに商品を作れない。
きれいな商品に出来ない。
たよりない。

かつてニューヨークでガンガンにペーパーバックの表紙を飾っていたこのわたしが「無能な人」(笑)。


でもほんとうは、小学校の頃から「のろま」で通っていた。
何やっても遅い。何やらせても出来ない。そんな存在だった。

それががんばって、がんばって、がんばってやってきたが、ここにきて、
やっぱりもとの「無能な人」にもどった。

なーんだ。
やっぱりここに落ち着いたか。

それがなんだか、ここちよい。

バイト先じゃ、わたしは出来ない人。
だから期待もされない。



今まで、がんばってき過ぎたなあ。。。そうしみじみおもう。
あの「のろま」なわたしが、よくぞここまで。。。と。

仕事の出来ない人は、ある意味、必要な存在じゃないかと思うんだ。

なぜかとゆーと、ちょっとムリをすれば、できる。
ホホーできたか。
じゃあ、もうちょっとムリをすれば?
お!出来るじゃないか。
じゃあ、もうちょっと、もうちょっと。。。。
と、どんどんムリが重なる。

そうやってこの今の社会は成り立っている気がする。
その結果が、心もからだもぼろぼろになる。そんな現状を作ってきたのではないか。

アマゾンの無料宅配が、ヤマトの宅配さんを圧迫している。
わたしも日々ヤマトさんに頼んでいるけど、見るからにたいへんそう。

ちょっとがまんすれば。。。ちょっとむりすれば。。。ちょっとがんばれば。。。
そういう、ちょっとちょっとの頑張りが、出来ちゃう結果が、これだ。


わたしゃ、がんばらない。
いや、がんばれない。

いや。がんばろうと思えば、がんばれる。
だけど、それをやって、どうなる?
もっときつくなるだけや。

私らの時代は、がんばることが美徳だった。がんばって、いい結果を出す。これがなによりの報酬。

だが、そこにあるのは、ただ自分が「出来る人」とおもえる満足感を味わえるだけ。

そのときは、まわりも「よくがんばりました」と、ほめてくれるだろう。だけど、それは一時のこと。そのすぐ後にまたほめてもらうためにがんばらなくてはならない。それはきりがない報酬じゃないか?
そしてそのあとは?
ただ、自身のからだのきつさが残る。

満足感や達成感のためだけに、自分の身体を犠牲にするのかい?

わたしゃ、「出来る人」をやめる。
「出来る人」を演じるのをやめる。
出来ないままにいる。
本来の自分でいる。

そういう人がいてもいいんじゃないか?
無能な人、仕事場で迷惑な人、空気読まない人、そんなひとがいる。
そういう人が、結果的に、どんどん加速度的にきつさが強くなって行く、この神経質な社会に、ストップをかけて行く。このままでいいんだろうか?って、疑問を投げかける。

そして、じょじょに社会は変化して行く。
もっともっとの時代から、
結果結果の時代から、

人の本当の幸せとは何か?
モノではない、幸せとは何か?
と、考えはじめる時代へと。


そういうことの始まりをおこす無能な人を「つくしる」という。

「つく汁」、飲んでみる?

(いらんいらん)



絵:「江戸めしのすすめ」/MF新書表紙



2017年2月27日月曜日

「お金、使って下さい」


昨日はなんか、変な所のつぼにハマった。夜、思いだしちゃあ、へらへら笑うわたし。

あるお金持ちさんが、お金が黙っててもわんさか入ってくる。経理の人に「お金、使って下さい」と言われ続けるらしい。しかし使えと言われても、そう簡単にお金は使えるものでなし。お金を使うのに苦労しているらしい(笑)。

たとえば、毎日1万円使ってくださいと言われると(お金持ちさんは、その10倍以上なんだとおもうけど)、はたして毎日使えるもんなんだろうか。

そりゃ最初は、ウホウホ使うに決まってる。
だけどウチにないものはなし。冷蔵庫もコタツもストーブもある。(あたりまえかw)スーパーに行ったって、いっぱい買ってもせいぜい5000円ぐらいだし。
それを毎日使うってなあ。。。想像しているだけでなんだかおなかいっぱいになる。

ホント言うと、昔はそのくらいふつうに使ってた。だけどこの年になってくると、そんなに必要なもんなんてなくなっている自分にも気がつく。毎日1万円は使えないなー。

ないないっていって、苦労する事もあるけど、使え使えって言われて苦悩することもあるんだなあ~って、おもっちゃって。

それにお金持ちになると、寄ってくる人、寄ってくる人を全部を疑ってかかる事になるそーだ。事実色々あるらしい。
なんだかなー。

「ビンボーって、気楽でいーなー!」

そんな話しをラーメン屋さんで聞いて、込み合った店の中で、思わず大声で言っちまった(笑)。

2017年2月25日土曜日

海沼武史 Takeshi Kainuma / ヒカリの庭へ





ことのはじまりは、中村明博店長と海沼武史が、うちのキッチンで二人並んで写真や表現について、ああだこうだとよく会話をしていたことからだった。

「そんなこと、ここでしゃべってるだけじゃつまらんやん。それ動画でとったら?」
ふたりの状況を引いて見ていたわたしは、そうつぶやいた。

「え~~~。それ撮ってどうするの?」
「それとって、編集して、ユーチューブにアップしたらえいやん」
「自分で編集するのか?」
「あたりまえやん!あんたがせんで、だれがやるん」
「え~~~。自分が映ってる動画を、自分が編集するんか?かっこわるい~~。」
「かっこわるうたってえいやん!」
と、はじまったのであった。

では撮影するには、カメラマンがいて、音響さんがいて、、、と、スタッフや機材を調達しようと店長が試みてくれたが、だーれもいない。
結局、言い出しっぺのわたしが生まれてはじめてビデオを回し、店長がタケシにインタビューするというシンプルな形になった。

2月5日の寒ーい日、雨と雪の気配を感じつつ、3人のあやしい大人が裏高尾の田舎をウロウロしながら撮影を開始。6時間かけて動画をとった。

その後、タケシが動画を編集。自分の話し方、自分のしぐさ、自分の癖。。。あらゆるものを引いてみることのきつさを体験したようだ。

自分の姿を外から見る?写真ならまだしも、動いている状態を、他人の視点で見ることの残酷さは、やってみなければ、わからんもんやろうなあ。
わたしにゃあ、できないw(おまえがいいだしたんやろが!)。

こうして七転八倒、阿鼻叫喚、四苦八苦の末、20分ほどの動画が出来上がりました。
彼、海沼武史の世界感が現れていると思います。

一度見終わったあと、試しに音だけを聞いてみてください。
言葉と、音と、音楽が織りなす、不思議なここちよさを感じてもらえるかもしれません。


音は見るものです。
カレーは飲みものです。


2017年2月24日金曜日

山の声




「こんちわ~」
「おーっ。きれいになったなあ~」

近所に住む女子大生と久しぶりに道でばったり。きれいにお化粧をして、今流行のファッションに身を包み、何を聴いているのか、耳にイヤホン。

随分変わったなあ。。。
感慨にふける。
あれが「山の声」を聞く少女だったとはとてもおもえない。

彼女がまだ小学校に入ったか入らなかったかの頃。女の子とも、男のことも区別がつかない、不思議にとぼけた彼女と話しをするのが大好きだった。

ある日のこと、道でいつものように二人でいると、彼女が山の声のことを話しはじめた。
「え?山ってしゃべるの?」と、私。
「うんっ!え?つくしちゃんは聞こえないの?」と彼女。

目の前の山を見つめて、山の声を聞いて見る。だけどわたしの耳にはうんともすんとも聞こえない。
「え~~~。聞こえないよお~~」
「そう?どれどれ」

そういって彼女は、地面に腰を下ろした。足を大きく開いて膝を立て、ピラミッドのような格好になって、じーっと山の声を聞いている。自分も山とおなじカタチになって、山と会話しているようだ。
そしてこっちをみて、にこっとわらった。
「ほらあ~~、きこえるじゃーん」
「なんていってる?」
「おおおおおおおおおおおお~~~~~~~~~~って!」

わたしはその声に感動した。
彼女は山の声を聞いている。確かに聴いている。
その事実に心が震えた。


あれから高校生になった彼女に山の声はまだ聞こえるか?と聞いたことがあった。
彼女はぽかんとした。
「なんのこと?」
「ほらー。あんた、山の声聞いていたじゃ~ん」
その時の彼女の顔が忘れられない。まるでお化けでも見るかのようにわたしを見たのだ。
「このおばさん。きもい。。。」とでもいわんばかりに。

聞いてたのは君だ。わたしじゃない!(笑)

黒いハイヒールを履いた今の彼女に、山はもう話しかけないのだろう。そのイヤホンから聞こえる声は、山から遠くはなれたところにある声なのだろう。
今も私たち二人の目の前には、昔と変わらぬ山があるのに。


この村で年に2回のご神事がある。ふもとの小さなほこらの前で、神主さんは祝詞をあげる。祝詞をあげるその始まりと終りに、「おおおおお~~~~~っ」という声を発するが、その声が彼女が山の声をマネしてくれた音によく似ている。
毎回、山を背にこの音を聴くのがわたしの楽しみになっている。



かつてわたしも彼女のように、山の声を聞いていたのだろうか。
彼女もわたしも、人間の世界にどっぷりはまっていくにしたがい、山の声がだんだん聞こえなくなっていったのかもしれない。

思えばずいぶんと人間のルールという服を重ね着してきたもんだ。
そろそろ一枚一枚脱いで行くとするか。

そのうち、山の声も聞けるかも知れない。
きっと今も山は話しているのだ。


絵:「じゅ」/和紙、洋紙、オイルパステル、水彩


2017年2月18日土曜日

あの頃に戻りた。。。くないw


「ああ、あの頃に戻りたいなあ~。。」
っていうのがない。
「二十歳の頃のわたしに戻りたい。あの頃のわたしはキレイかったなあ~」
とか、おもったことがない。

じじつ、きれいでもなんでもなかったわけだが、それでも今よりはマシであった。

幼稚園の時から、老け役で舞台に立つほど、すでにばばあだった。先日もダンナといると、親子と間違えられた(もちろんわたしが親)。これで3回目だ。
ダンナが見た目が若く見えるのと、わたしが見た目が老けて見えるのが、ちょうどいい感じにブレンドされて、母と息子に見えるらしい。

なんでかしらんが、ちっちゃい時から、早く年をとりたいとおもっていた。だからおかあさんの役や、おばあさんの役をもらうと、うれしかった。
今まさに、その憧れの年齢に突入しはじめている。しかも見た目は実年齢より、15歳ほど上だ。大成功だ。

だからなのかどうか、マイナス5歳肌にも興味がないし、化粧もしないし、昔に返りたいともおもわない。

だいたい20ぐらいの時は、ひたすら苦しかった。一般的に言われる「若い=しあわせ=楽しい」というような方程式はなかった。
若くて楽しい毎日があったなんて、思いだせない。
みんなは本当にあの頃に帰りたいんだろうか。いい思い出だけ残してるんじゃないか?じっさいのところ、いろんな苦悩があったはずだ。しかも若いが故に犯した罪など、思いだしただけで落ち込むことがいっぱい。

「青春時代が夢なんて、あとからほのぼの、思うもの~。
青春時代の真ん中は、胸に刺さす、ことばかり~」
って、森田公一とトップギャランがうたってたけど(古っ!)、わたしにとっちゃあまさにあれが本音。
あの頃に戻りたいなんて、ムリムリ!むしろパス!

だから、20の頃よりも、30。
30の頃よりも、40。
40の頃よりも、50の今の方が、生き方も、姿形もすき。

ちまたにあふれている情報は、
「若いことは正しいことで、老いることはいけないこと」
みたいな考えを植え付ける広告や番組ばかり。
人は平等に年をとり、じょじょに衰えて、死にいたる。
それこそ自然の摂理。
それに抵抗することは、エネルギーをそれにそそぎつづけ、どれだけだいじな力を失っていることか!

「あるがまま」ってことばがはやってるけど、これは簡単に言える言葉じゃない。
その自然の摂理を真正面から受け取ることなのだ。

昔、日本人は老いることは誇りに思うことだったし、みな老人を尊重していた。今はどうだ。まるでアメリカ人のようだ。
アメリカに住みはじめた頃、老人が「老いていてすみません。。。」というような雰囲気を出していて、それを見た時ショックだった。
今、日本にもそんなムードがあふれている。

過去なんて、とっくに過ぎ去ったもの。
追いかけたって、帰ってきやしない。
そこにエネルギーを必要以上に注ぐから、より老化が早くなるのだ。

老化?
ほっちょけほっちょけ。

そんなもなあ、あなたの存在価値の中のびびたるものよ。


絵:「北条政子」の似顔絵(うそw)