今の季節、コオロギの大合唱だ。
テレビを見なくなって何年たつだろう。コンセントさえ入れていない。
テレビは大きな地震があった時「どれ?どこだ?」と言って震源地を確認するためだけにある。しかし昨日スマホのウェザーニュースのなかに動画配信があって、テレビよりも速く情報が見れるということを教えてもらい、テレビはさらに青い布がかけてある単なる黒い板になった。
この家は目の前に川と山が迫っている。だから自然の音がダイレクトに聞こえる。
鹿の鳴き声、イノシシのため息、山栗を食らう硬い音、川を走り回る彼ら。
そして季節ごとの虫や生きものたちの声。
コオロギの大合唱は11月半ばまで続き、ある日ピタッととまる。
その日から静かな冬がやってくる。
年が明けてまだ薄ら寒い3月のある日、川から涼しげな声が聞こえる。カジカが春を迎えるために歌い始めるのだ。一匹、二匹と少しずつ増え、やがて大合唱になる。清流にしか住まないというカジカの声は貴重だ。
それが夏まで続き、少しだけ静かな時期を通り抜け、そして秋の声たちがやってくる。
気がつけばその声たちを20年聴いていた。
ふと思う。
この振動を毎日毎晩聴き続けているわけで、それは私に何かしらの影響を与えているんではないか。
テレビの騒々しい音を消した後の静寂が迫ってくるあの感覚。恐ろしい闇が迫ってくるような一瞬の真空状態ののち、聞こえてくる透明な鈴虫の声。
それはずっと昔から、私たちの祖先が聴いてきた音。
江戸時代も、戦国時代も、万葉の時代も、そこにあった。
その振動が身近ではなくなったのは、ほんの100年前ぐらいなのではないか。
その間に私たちの感覚は人間が作り出す音の中に取り込まれていった。
夜中、苦しくて目をさますと、私は窓を開ける。
とたんに虫の声と山の霊気が私の中に入ってきて心を落ち着かせる。
窓を閉めると人間の世界に入る。開けると違うものが入ってくる。
先日、グチャグチャと考え事をしながら森に入った。
すると森の圧倒的な静寂に包まれて、それまであった心のグチャグチャが消えていた。森の生き物たちの心の静けさに気づかされた。
だから窓を開けたがっていたんだ。森の声を聞きたがっていたんだ。全てを受け入れてくれることを私は知っていたのだ。
先日展覧会を終えた写真家の海沼武史と私はここで21年間住んでいる。
二人が紡ぎ出す作品はどこか似ている。それは当たり前かもしれない。
日々この目の前に広がるトーンの中で同じ音、同じ振動、同じ光、同じ森の心を見ているのだから。
この場所だからこそ、それは私に浸透し、私の手を通して、現れてくれる。
10日から始まる展覧会にぜひお越しください。
私が聴いて見て感じ取ったその世界を、目撃しに来てください。
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