正しいってなんだろね。
この頃そんなことを考える。
奇跡のコースやってると、人の数だけコースあるんじゃね?と思えてくる。
同じ本を学んでいるのに、みんな違うのだ。
何とかして意見の一致を試みる。
でもどうにもかみ合わない。
じーっと考えると、どうも私は「私の方が正しい」と思っていた。
それは相手も同じだ。
「私の方が正しい」と。
だからくいちがっちゃうんだ。
人は他の人と答え合わせをしたい。
一緒だよね。あーよかったーって。
先日、陶芸教室のグループ展に参加した。
搬入の時、先生が生徒に向かって怒った。
それはすさまじい怒りの爆発で、生徒もそれに応戦する。
私は第三者的に見ていたから、
先生の意見も生徒さんの意見もどっちも正しいのだよな~~と思った。
でも火の粉が私に向かったら、
「絶対私の方が正しい!」ってなると思う。
人は正しさを求める。
でもその正しさとは、その人の考えや立場によって作られる曖昧なものだ。
このところたくさんの人たちと話をした。
その人それぞれの考えがある。
ふと思う。私と同じ考えの人はいるんだろうか?と。
そしたら、あろうことか、誰もいなかった。まったく。
いつもしゃべっているダンナとでさえ、同じではない。
ちょっとショック。いないんだ。私と同じ考えの人は。
私は心のどこかで、同じ考えを持つ人に会いたいと思っていたのだ。
これは完全に無意識だった。
だから考えの違う友人と、
どうにかして足並みを揃えたいと切に願っていたんだ。
でもそれが不可能だと知った時、なぜか心は静かになった。
言葉は自我の領域の道具だ。分離を生み続ける道具。
その道具は、相手と一緒になろうとして使えば使うほど、どんどん離れていく。
つまりそれで一緒になることはできないのだった。
ほとんど無意識だが、私たちは「自分が正しい」という思いで行動する。
でもそれをひとたび指摘されると、イラっとする。
それは心の中に「私は正しくあるべきだ」と思っているからだ。
それは言い換えると、ひょっとしたら私は間違っているかもしれない。。。
という恐れがあるわけだ。
ひょっとしたら、私は間違ってる。。。?
っていう思いがあるから、
「あなたは間違っている」と言われたら、図星のあまり怒る(笑)。
「正しい」自分を守るために防衛という攻撃を開始する。
こうしてヒリヒリするような緊張感の中で、日々人と接し生きている。
この中で答えは見つけられない。
言葉と言葉の応戦が続いてくだけになる。
その言葉を通り越して、その後ろを見る。
後ろには言葉ではない、素の私たちがいる。
その素の私たちは、愛で満ちていて、いつもニコニコしている。
言葉と言葉はぶつかり合うけれど、
愛で満ちた見えない存在を思い出すと、
あ、そうだった。もう一緒くただったんだよな~ってなる。
ひとつの心が、バラバラになったふりをして、
この分離の世界でいる気になっているからだ。
ほんとはひとつなのに。
この世界は正しさで満ちている。
どっちが正しい、どれが正しい?
それをいうなら、みんな正しい。
でもそれは本筋ではない。
自分の正しいを確認したって、いっときホッとするだけのこと。
また次の瞬間、正しい?間違ってる?って戦々恐々とする。
そっちより、幸せ、喜び、楽しさ。
それが本当に実在するもの。
そっちがいいな。
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