久しぶりにテレビのスイッチをつけた。
7時のニュースを見たら、恐れでいっぱいだった。
トップニュースはコロナであり、次のニュースもコロナであり、ついで次もコロナ関連であり、そしてコロナで。。。
何じゃこりゃ。
夕食時にこんなもの見ながらよくご飯が食べられるもんだ。
いや~な気分になり、とてもご飯を食べる気にならなくなり、途中で消した。
とたんに静寂が戻り、穏やかな気分で食事ができた。
「テレビなんか見たらバカになる!」と言われてた頃があった。
あれから何十年たっただろう。
気がついたら、テレビが私たちの生きるお手本になっていた。
「テレビが言うんだから、間違いない!」と。
滅多に見ないからこそ、外から引いてみられることもある。
まるで「恐れなさい、恐れなさい、そしてもっと恐れなさい。」
って言われているように見えた。
道ですれ違っても、山道で人と出会っても、その存在にビクッとする人もいるだろう。
できるだけ接触しないように警戒しながらすれ違う。
挨拶もできない。飛沫が飛ぶから。
目の前の人が敵(コロナ)かもしれない。
いやもしかしたら、私が敵(コロナ)で、人を攻撃(感染)してしまうかもしれない。。。
今までは被害者でいて、加害者は自分の外にいた。
でも今は、自分が加害者なのかもしれないという思いにさいなまれる、そんな時代。
他人も脅威だが、自分さえも脅威なのだ。恐れはますます人と人とを離していく。
こんなに他人を拒絶した時代があったろうか。
コロナは、人と人とを離すことになった。
だがよく考えてみると、人に接触をしないというのは、思いやりの行為。
マスクをするのも、感染しないためでもあるが、人に移さないようにという思いでもある。
一見人を引き離す拒絶のように見えるものも、
もう一つ別の面から見れば、相手に移さないための愛の行為。
互いが思いやる心。
恐れの後ろに愛があった。
高知に帰って、母に会いにいくのも愛の行為。
高知に帰らず、母に会わないのも愛の行為。
行為は真反対なのに、心は同じ思いであることに変わりはない。
同じ行為でもその捉え方によって、幸せにも不幸にも感じる。
道ですれ違う時、すっとよける自分の行為を、
拒絶という恐れで行うのか、
思いやりという愛の想いで行うのか。
この世界の原因は、心。
心が思っている方向に、現象という結果が現れている。
心が愛なのか、恐れなのか。
どっちを向いているかで、その人の幸不幸が決まる。
私は愛の想いを選びたい。
喜びで、人とすれ違いたい。
絵/夏の草(和紙)
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