「聖霊」ってなんだろう?
私がこのブログでしれっと言う「聖霊さん」という存在。
ああ、つくしはついにお花畑に飛ぶ、
羽の生えた天使とともにあっちに行っちゃったのか、、
と思われるだろーなーとか思ってますが。
ちょっと言い訳します(心ちっちゃ)
この存在は、羽の生えた天使ではない。
人物でもない。妖精でもない。妖怪でもない。
人の形もしていない、全く物理的なものではなく、
あえていうなら、「考え」「思い」ということだな。
だったら、「思い」とか「考え」って言えばいいんだろうけど、
それだと従来の思いとか考えとごっちゃになるので、それは使えない。
なんせ、聖霊の思いは、通常私たちが考える思いとは真反対のものだから。
色々考えた。どう言ったらええのだ?
例えば、「ぬらりひょん」でも「天狗」と言い換えてもいいのかもしれないが、
それだとゲゲゲの鬼太郎に出てくる、人の家に勝手に入り込んで、主のようにお茶を飲んでる
ふてぶてしい「ぬらりひょん」のイメージが出てくるし、
「天狗」は高尾山や鞍馬山にいる、
鼻が長い高下駄履いたやつのイメージが出てくるのであかん。
じゃあ、意味のない言葉はどうだ?
「パピポ」でもいいかもしんない。
「私はパピポさんとともに赦します」とか。。。。
なんかマヌケだ。。。
奇跡講座を語る存在がイエスなので、どうしてもノリがキリスト教的なのだ。
だから聖霊。
私も最初は抵抗があった。
「キリスト教徒でもないのになんで聖霊、、、?」
「ブッダ」でも「仏」でもいいらしいのだが、
それにまつわるイメージがあるので、キリスト仏教(笑)みたくなる。
さんざん考えたが、他に思いつく言葉が見当たらないので、
言われるままに素直に使うことにした。
聖霊とは、自我とともにこの世界に生きる私たちに、
神を思い出させてくれるために連れてこられたメッセンジャー。(いや、人じゃないよ)
実のところ、その聖霊は元々の私たちなのだ。
自我とともに考えてきた私たち。自我が教えるこの世界。
どっぷり浸りきって、元々の自分を忘れている私たちに、
この世界は実在していないことを思い出させてくれる考えを与えてくれる。
ブッダが「この世界はない」と気づいたことを、
聖霊は言葉にならない何かで、私たちに事細かく教えてくれる。
どうしてそれはないのか。
では本当の世界とは何か。
体験を通して、少しづつ気づかせてくれる。
自我の目を通してこの世界を見ている私たちに、
聖霊の目を通して見るようにうながす。
それはとても優しく、ゆっくりと、柔らかに、解きほぐしてくれる。
起こる出来事は、自我とともに信じてきた信念を手放すために起こる。
「それはまだ必要かい?
苦しさはまだ持っておきたいかい?
それを私に手渡してくれる気はないかい?」
そうして「まだ、ヤダ!まだこの苦しみを味わいたい!持っていたい!」
といえば、それを尊重してくれるし、
「もう、、、いいです。もうこんな苦しい思いは私に必要ありません。。。
あなたに手渡します」
といえば、
「ではそれをもらっていくよ」
と、持って行って取り消してくれる。
そこにとてつもない深い愛を感じる。
たぶん、私が感じる比ではないほどのものだろうけど。
だから今日も、私は聖霊さんとともに赦していく。
絵/ラクシュミ
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