自分の中で聞こえる声は、誰なのか。
それは自我の声。
この世界は神様が作ったものではなく、その自我が作った世界。
だから自我にとっては、この世界は専門分野。どんなことも事細かく納得のいく指導をしてくれる。
だからこそ、私たちはその声から逃れられない。あまりに説得力のある声だから。
だがその声は、私たちを萎えさせる。
自我が作った世界で、自我の指導があれば、これは鬼に金棒。。。。なはず。
なのになぜか私たちはその声に苦しむ。
それは恐れがその土台になっているから。
この世界が恐れによって作られているのなら、私たちが苦しむのも無理はない。
私たちは恐れで出来上がっているのではないから。
本当は恐れの住人ではないのだから。
だから心がやられてしまう。
次から次へと恐れを押し付けてくる、その自我の声に。
私たちが恐れる時、体がギュッと凝縮する。
その時、世界が敵に見える。
自分という独立した体と、世界という空間の中に、自分という体とは別の、似たような体が目の前にあるように見える。それは自分とは完全に分離していて、その体の心の中は見えない。
そして自分の中の声がいうのだ。「あいつを攻撃しろ」
目の前の存在に恐れを感じると、その目の前の存在も同時に恐れを感じている。
その時、互いが防衛という攻撃を仕掛けるのだ。
だがそれは鏡に向かって、怒っているのと同じ。終わりのない戦い。
それでも自我は「もっと攻撃しろ!」と畳み掛ける。
これが自我の正体。
私たちを延々と恐れの中に埋没させ、この世界を維持させている。
問題は常に外にあり、その問題を解決するために、外を探せと。
けれどもその本心は、
「探せよ、されど見つけることなかれ」
私たちが自我と一緒に考えている時、恐れと共にいる。
問題を見つけて恐れ、それを解決するために考える。
実はこれは本当に考えているのではない。自我のループの中で踊らされているだけなのだ。
自分がいつも考えていることを思い出すといいかもしれない。
だいたい同じセリフを言ってないだろうか。
この世への嘆き、人への嘆き、自分への嘆き。。
その同じセリフの後に続く言葉もまた、同じセリフが続く。
それは考えるというレベルではなく、
「不満」という名のカセットテープ(古い。今でいうなら動画か?)の再生ボタンを押し続けているだけなのだ。
私たちの本性は恐れではない。
喜びなのだ。
人と喧嘩している時、自分と他人という分離がある。
しかし人と喜んでいる時、自分と他人は一緒だ。一緒に喜べば、その喜びはまわりにも広がっていく。
喜んだ時、神を知る。思い出す。本当はこうであった私たちを。
私たちはその時、神に触れているのだ。
あまりにも長い間、自我の世界があるかのように生きてきた。
でも忘れているだけ。
本当にあるのは神だけだと、どこかで知っている私たち。
生まれてきたばかりの頃、私は光の中にいた。
その光が徐々に色を帯び、形を作り、自分という意識と、人という分離した存在を作り始めた。
その形象の中で、散々苦しんできたが、それは私の思いからできたものに過ぎなかった。
分離を味わいたいという思いから作り上げたものだった。
自我は実在などしていない。
頭の中で聞こえてくる声を、そっと置き去りにして、
胸のあたりで静かに息をする。
昔よく見たシーンを思い出した。
波の音。。。
よせては返す波の音。。。
高く昇った月が、海の上に足跡を残している。
静かな息が、波の音と重なる。
その時、私と空と海と月は、ひとつになった。
絵/「天狗舞」
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