2021年6月13日日曜日

何にヤられているのか2

 


昨日の続き。


自分の中で聞こえる声は、誰なのか。

それは自我の声。


この世界は神様が作ったものではなく、その自我が作った世界。

だから自我にとっては、この世界は専門分野。どんなことも事細かく納得のいく指導をしてくれる。

だからこそ、私たちはその声から逃れられない。あまりに説得力のある声だから。


だがその声は、私たちを萎えさせる。

自我が作った世界で、自我の指導があれば、これは鬼に金棒。。。。なはず。

なのになぜか私たちはその声に苦しむ。



それは恐れがその土台になっているから。

この世界が恐れによって作られているのなら、私たちが苦しむのも無理はない。


私たちは恐れで出来上がっているのではないから。


本当は恐れの住人ではないのだから。


だから心がやられてしまう。

次から次へと恐れを押し付けてくる、その自我の声に。





私たちが恐れる時、体がギュッと凝縮する。

その時、世界が敵に見える。


自分という独立した体と、世界という空間の中に、自分という体とは別の、似たような体が目の前にあるように見える。それは自分とは完全に分離していて、その体の心の中は見えない。


そして自分の中の声がいうのだ。「あいつを攻撃しろ」


目の前の存在に恐れを感じると、その目の前の存在も同時に恐れを感じている。

その時、互いが防衛という攻撃を仕掛けるのだ。


だがそれは鏡に向かって、怒っているのと同じ。終わりのない戦い。

それでも自我は「もっと攻撃しろ!」と畳み掛ける。



これが自我の正体。

私たちを延々と恐れの中に埋没させ、この世界を維持させている。

問題は常に外にあり、その問題を解決するために、外を探せと。


けれどもその本心は、

「探せよ、されど見つけることなかれ」


私たちが自我と一緒に考えている時、恐れと共にいる。

問題を見つけて恐れ、それを解決するために考える。

実はこれは本当に考えているのではない。自我のループの中で踊らされているだけなのだ。


自分がいつも考えていることを思い出すといいかもしれない。

だいたい同じセリフを言ってないだろうか。

この世への嘆き、人への嘆き、自分への嘆き。。

その同じセリフの後に続く言葉もまた、同じセリフが続く。


それは考えるというレベルではなく、

「不満」という名のカセットテープ(古い。今でいうなら動画か?)の再生ボタンを押し続けているだけなのだ。





私たちの本性は恐れではない。

喜びなのだ。


人と喧嘩している時、自分と他人という分離がある。

しかし人と喜んでいる時、自分と他人は一緒だ。一緒に喜べば、その喜びはまわりにも広がっていく。


喜んだ時、神を知る。思い出す。本当はこうであった私たちを。

私たちはその時、神に触れているのだ。


あまりにも長い間、自我の世界があるかのように生きてきた。

でも忘れているだけ。


本当にあるのは神だけだと、どこかで知っている私たち。




生まれてきたばかりの頃、私は光の中にいた。

その光が徐々に色を帯び、形を作り、自分という意識と、人という分離した存在を作り始めた。

その形象の中で、散々苦しんできたが、それは私の思いからできたものに過ぎなかった。

分離を味わいたいという思いから作り上げたものだった。


自我は実在などしていない。





頭の中で聞こえてくる声を、そっと置き去りにして、

胸のあたりで静かに息をする。


昔よく見たシーンを思い出した。


波の音。。。

よせては返す波の音。。。

高く昇った月が、海の上に足跡を残している。


静かな息が、波の音と重なる。

その時、私と空と海と月は、ひとつになった。




絵/「天狗舞」


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