ずっとクライアントの言葉にビクビクしてた。
「どう言われるんだろう」
「どんな反応が返ってくるんだろう?」
仕事が来ると、一瞬喜び、安堵し、
そして次に仕事へのプレッシャーがやってくる。
「うまく描かないと、仕事がポシャる」
ラフを上げるのに、四苦八苦。
ものすごいプレッシャーに押しつぶされそうになる。
プレッシャーは前からあったが、これほどではなかった。
ついに発狂寸前にまでなる。
猛烈な自己否定と未来への強烈な恐れで耐えられなくなった。
散歩の途中、電車がやってくる踏切に飛び込もうとする。
意志力で止めた。
これ、やばい。。。
心を見始めて三年が立つ。いつも自分の思考や感情をつぶさに観察している。
今では微細な心の変化にも気がつくようになった。
隠してきた恐れがどんどんあらわになってくる。
そうすると、感情も極端に感じるようになっていた。
しかし今回のこの出来事。ここまでひっぱくした状態になった。下手したら死ぬ。
自分がどれだけクライアントに怯えているのか、今、本当に見なければいけない時だった。
夜、静かになったとき、自分の心と対面する。
一体どんな信念が私の中にあり、それがこの恐れを作り出しているのか、聖霊とともに見よう。
お金。。。
最初にこの言葉が浮かんだ。
そうだ、私はクライアントにお金をもらって仕事をしている。
私の中に、お金をくれる人、お金をもらう人、という構図が見えた。
すると私はお金をくれる人が上、もらう人が下という上下をつけていることに気がつく。
豊かなお金を持っている王様が、「働け!」と言って、金銭をばらまく。
そこに隷属する私が重労働をしているシーンが。。。
ちょっと待って。
私は奴隷なのか!?
クライアントは王様で私は奴隷なのか!?
こんな信念が自分の中にあったことに驚いた。
そりゃあ必死になるだろう。奴隷は王様に必死でしがみつかないと、生きていけないのだから。
そしてそのなんとも言えない重苦しい気分、心が押しつぶされそうになる思いを味わいながら、
これを聖霊とともに見たい、聖霊ならどう見るのですか?と問うてみた。
対等。。。。
「対等。。。。?」
確かに私は、クライアントが上で、私が下と考えている。対等ではない。
では対等ってどういう意味なのだろう?
愛。。。
「愛。。ですか?」
そうか。私は本の表紙の絵を描くという、愛を表現している。
愛で描かないと、その本の魅力は伝えられない。
でもお金をもらうということは上下の関係で。。。
と思った時、
「お金もひょっとしたら愛の表現なのではないか?」と気づく。
私が愛をもって絵を描く。
それにクライアントは「ありがとう」という感謝の気持ちを伝える。
だけど気持ちだけじゃまだ表現しきれないなあと、お金という形を表現しているのだ。
私が愛でもって絵を描く。
クライアントは愛をお金で現す。
二人はまったく対等だ!
どっちも愛の交流をしているんだ。。!
そう気がついた時、私はとてつもない自由を感じた。
上下の関係を感じていた時、何かコントロールされるような感覚だった。
上にいるものが、下にいるものをコントロールし、
下にいるものはコントロールされる気分になる。
だから苦しかったんだ。。。!
私たちはお金を払う側も、もらう側もまったく対等だった。
「お客様は神様です」
という言葉は、お金を払ってくれる人に敬意を払うものであるが、
無意識に払ってくれる人の方が上。。。。と思ってしまう傾向がないだろうか。
それが「神様」という言葉に現れている。
神様だから邪険にはできないと。。。自分は平民だから下だと。。。
自分で自分を下にしていないだろうか。
だけどお金を払うには払うなりの、価値があるってことだ。
「この愛の表現に、私はお金という愛の表現でもって、感謝の意を表します!」
って言ってるのだもの、それはまさに互いが対等な関係だ。
だから本当は「お客様も私たちも神様です」なんだろうな。
この夜の気づきは、私に大きな考え方の変化をもたらしてくれた。
私の中に自由な心が芽生えた。
クライアントは私の愛の表現を待っている!と。
ワクワクすることじゃない?私から出てくる愛を待ってくれているんだもの。
クライアントからもらったありがたい仕事に、私は嬉々としてラフを出した。
3点のラフを提出した数日後、
あの気づきの後の、愛を込めたラフのアイディアが採用された。
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