共感。
この世知辛い世の中、右を向いても左も見ても苦しいことだらけ。日々の生活はつらいことのオンパレード。
そんな心の思いを吐露して共感してくれる友だちのありがたいこと。
つらいね。そうだよね。わかるよ。
そのとき、ああ、つらがっていいんだ、悲しがっていいんだ、ハラ立てていいんだ。。
自分の中から湧き出てくる感情を肯定してくれる存在。心に安堵が広がる。
感情的になってはいけないという段階から、その感情は人として持っていいんだという肯定の認識が生まれる。
共感は安堵し、よろこびが生まれる。
そしてまた同じことが起こると、同じように感情が動き、同じように共感を求める。
感情が動き、それを吐露し、共感され、安堵する。
それが繰り返される。
その繰り返しにふと気がつくとき、あなたはその共感の世界からはなれて見ている。
ぐるぐると回っている洗濯機の中から出て、回っている渦をみている。
そのとき、次の段階へと進む。
なぜ感情が動くのか。なぜここで悲しいと思うのか。なぜこれに怒るのか。
いつもそれに怒っているのが苦しいことを深くのぞいていくと、そこに必ず理由があることを知るだろう。とても個人的なものだ。自分に起こった過去の出来事の重なりで、その感情はわき上がってくるのだから。
その感情の起こりを、他人のせいではなく、自分のこととして観る。
不幸にも偶然出来事が起こり、あいつのせいであなたが怒らされたのではなく、その人はあなたの中にあるものを、表に出させようとして、役者をやってくれているのだと認識することをうながされる。
過去の、いつかどこかで自分の中から拒絶したものを見ていたのだと気がつきはじめる。
たとえば、「こういうことはいけないことだ。」と教えられると、その時からそれはいけないことなのだというルールが生まれる。
「それ、いけないんだよ」
「なんで?」
「だってママがそう言ってたもん」
そのルールめがねで世の中を見ると、なるほどそれはたしかにいけないことだ。それはぜひ正す必要がある。そしていつのまにかそれを正すことが、その人の心の平安をもたらすことのように思いはじめる。
だからそうしない人を怒る、裁く、うまくいかないと泣く。感情がわきだつ。
感情が起こるには理由がある。
最初に言葉がある。
その言葉にのっとって、
からだがぴくりと反応する。
そして感情が動く。
ほぼ同時。
こういう心の中の仕組みをひもといていくと、共感もまた感情の世界だと気がつく。
そこにはそれを解体していく方向性はない。
自分の感情の仕組みを知り、それに向かい、拒絶していたものを受け入れはじめると、正しいまちがっているというルールが、どれだけ人を混乱させ苦しめているのかわかってくる。そのルールを真正面から眺めていると、それは絶対的な価値感でも強固なものでもなくなってくる。
それでもまだ根深い価値観は残っているが、表面的な価値観にふりまわされなくなる。
それでもまだ根深い価値観は残っているが、表面的な価値観にふりまわされなくなる。
感情がやって来ても、どこかで引いて見るようになる。
外からの共感は必要としなくなる。
別のよろこびがはじまる。
何かが手に入ってよろこんでいたものが、何もなくてもただうれしい。
安心できるなにかがあるわけでもないのに安堵する。
なんだ。こんなことだったのか。
そっかそっか。
子供のときもっていたものだ。
親からもらうルールめがねをかける前のあの感じ。
ただここにいることが、うれしかったあのころの。
絵:「杉」/紙絵
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