2010年2月15日月曜日
あるべき姿?
人が心の中でおしゃべりをするとき、その心の後ろには「ニンゲンこうあるべき」という条件のようなものが基準になっている。
「あたしってすごい」のも、すごいなりの何かの基準があるに違いない。悲しいことだって「これが悲しいことだ」という何かの基準がある。傷つくのも、キレるのも、「ほんとはこうあるべき」なことが、違う風になってしまったから、キレるのだ。おしゃべりのうしろには、基準になる何かが常にあるということだ。じゃあ、そのこうあるべき基準とは何?
いい大学に入って、いい会社に就職をして、お給料はいっぱい、いいところのきれいなお嫁さんをもらって、マイホームをもって、子供もいい学校に入れて、家族円満。今のところこういうのが理想の姿とされているだろう。ところがみんながそうなるわけがない。いい大学に入るには受験勉強、他の人よりも成績が抜きん出ないといけない。そこで競争がはじまる。大学に入る人がいれば、入れない人もいる。就職も同じ。勝ち組負け組という言葉も出るほどそこには人生に「成功」する人もいれば「失敗」する人もいる。その成功とはどこかのいい大学に入ることなのだ。たかがどこかの。たかがどこかの、というなかれ。そこには「ニンゲン成功するべき」といういつの間にか刷り込まれた法律があるのだ。ほら、そこに条件付けがある。合格しないといけないし、ビジネス戦争に勝てないといけない。負けると「負け組」というレッテルを貼られる。じゃあ、大学受験にも成功し、ビジネス戦争にも大成功を修めたとしよう。でも奥さんとトラブルになるかもしれない。病気になるかもしれない。するとそこにも条件がある。「ニンゲン元気であるべき」「ニンゲン夫婦円満であるべき」
その「あるべき姿」に自分がならないと、人はジレンマを感じ始める。そしてブツブツとおしゃべりが始まる。「こうであるべき」姿にほど遠い自分。人生に失敗したと思う自分。職場の同僚を見て嫉妬や憎悪が次第にわき起こってくる自分。またそんな自分にも腹が立つ自分。悶々とした気分のまま家に帰れば、素っ気ない子供や奥さんにもムカつく。「あのやろ、俺がいない間に俺のことを粗大ゴミとか子供に吹き込んでいるにちがいない。。。」
ではその「あるべき姿」とはいったいなんなのだ?
「ボクちゃん、いい大学に行って、いいところに就職しなさい。そうすれば、ママはとってもうれしいわ」「今うんとがんばるのよ。するとあとで楽になるのよ。いいことがあるのよ。ママは悪いことは言わないわ。がんばれ。がんばれ」
で、そう言われると、いい大学にいけないと、ママを不幸せにさせてしまうし、がんばらないと、あとで苦しい思いをする。と思ってしまわないだろうか。
そこらへんからすでに洗脳が始まっている。そのママは、「お受験」がいいことだと思っている。がんばればがんばるだけそれなりに進むと思っている。そのアイディアはどこからくる?自分の中から自然に溢れ出るアイディアではないだろうな。きっとどこかで誰かに言われたことだ。「まあ、ケイコさん、マナブ君をお受験させないの?そんなことしたら、ひどい学校にあなたの愛するマナブ君をいかせることになるのよ。そこでいじめに遭うかもしれないわよ。最近は殺人なんかもあるのよ。いいところにいかせるのはあなたの責任よ」とかなんとかいって、脅されたのだ。
そのケイコさんに向かって親切にアドヴァイスしたお友達も、やっぱり誰かにアドヴァイス(脅された)されたのだ。
人を支配するには恐怖で支配するのが一番手っ取り早い。「あなた、こうなるかもしれないわよ」と脅すのがいい。人はその恐怖におののいて、さっさとうごきはじめる。ニュースやコマーシャルがよく使う手だ。「それでいいのですか、あなた。そのうちとんでもない病気になりますよ」とか「地球にやさしくしないと、あなたはニンゲンではありませんよ」とね。
これがホントによく効くんだ、特にまじめな日本人には。
絵:「モンスター列伝」/正力松太郎
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