2010年2月9日火曜日
大根ジャングル
去年の秋に「ちょっと遅いかな~」と思いつつ、ムリヤリ蒔いた練馬大根の種。今年の寒さにしっかりやられて、葉っぱが黄色くなって地面に張り付いている。マビキしようと引っ張ってもいつの間にか地面深く根が伸びていて、びくともしない。タイマンな私はそのまま放っておいた。すると隣同士で葉っぱが絡み合い、ひしめき合い、地面一杯に広がった。ぱっとみると、単なる黄色くなった草の畝だ。このままあったかくなってどうなるんだろう?とほっておいたが、昨日好奇心で一本無理矢理引き抜いてみようと思った。
ちょっと土の下をまさぐった。すると大根のまわりに穴があいている。
「げ。モグラでも穴ほったか?」
不安がよぎる。大根にそって下に土を掘り進む。15センチ白いおみ足が出て来た。別にモグラに横っ腹を食われているふうでもない。わたしは両手でむんずと大根の襟元をつかんで、ゆっくりと左に回しながら引き上げる。
ぬけた!全長50センチ。太さ7センチくらいのひょろひょっろ〜っとしたおみ足。大根め。この寒空にもめげず、ゆっくり育っているではないか。かわいいやつ。
私は次の大根ぬきに挑戦。土の中に手を突っ込むと、これまた穴があいている。「あれ〜?ここにもモグラの通り道?」
だがその次の大根の横の土に穴があいているのを知る。だが誰にも食われていない。
実はそれは穴ではなかった。大根のまわりは土でぎっちり一杯ではなく、フワフワとゆるゆるとほろほろになった土でくるまれていたのだ。真綿のような土?そんな感じ。だからこの寒空で雪が降っても、表面は葉っぱで覆い尽くされ冷気を寄せ付けず、また土の下は真綿のようになって、温かさを保っていたのではないだろうか。そしてそのゆるゆるとした空間の中で、これから温かくなるに向けて、思いっきり太ってやろうと密かに企てをしていたのではないか。
そんな大根たちのしたたかさと、自然が作り上げる英知にちょっくらびっくりしたのであった。
図らずもその前日に、近所の農家のおじさんにぼそっといわれた。
「畑は耕さないとな。耕さないと」
でもこんな自然の姿を前にして、耕す必要などあるのだろうか。人が耕したとしても、あれほど柔らかい、真綿よりも柔らかい状態に土を耕すことが出来るだろうか。私は無理だと思う。これはまさに自然が自分たちの子孫を確実に残していくための英知であり、土やその他のものたちとの、まったく人間の考えを超えたところにある大いなる営みなのだ。
虫が食った、鳥が食った、病気になった、と何かが起こったときすぐ何かやらなければいけないと思い込むのが人間。けれどもきっとその虫が食うには、病気になるにはなるだけの理由がそこにあるのだ。これはイケナイこと、と思い込んでいるが、ほんとうは食われたことが悪いわけでも、病気になったことが悪いわけでもないのではないか。食われることによって正常に戻る何かが、そして病気になることによって正常に戻る何かが働いているような気がしてならない。
今、ひさしぶりに胃がいたい。普通なら何かしなければと思う。一般的には胃腸薬飲んでみたりする。しかし身体が痛さによって、何かを教えているとしたら?
身体にしてみたら、
「ちょっとちょっとおー、あんた最近食べ過ぎだよ。あたしがちょっくら今治してんだから、その間食べないでよね」
なんて言えないもんだから、「痛み」でそれを知らせるというのが、身体からのコミュニケーションの伝達法だったりして。痛みを感じれば、人間誰だって「へ?何かある?」と身体のことに気がつく。ある種の緊張感を与えるのだ。「かゆい」ぐらいだったらスルーされちゃうじゃあないか。痛みで危機感をあおっておき、ちょっと緊張して固まっている(本人が)ところで、その間にせっせと治す作業に入る。
だとしたら、そのまま身体にまかせて治してもらっているのが一番いい方法なのではないだろうか。
人間はそんなに弱くない。今まで何百万年も生きて来たのだ。その身体の機能は自然のそれとまったく同じなのでないのか。人間がよけいなこと考えて心配してお馬鹿なことばっかりするから、
「あ〜あ、また治さなきゃイケナイじゃん。もお〜」
とその度ごとに、せっせこせっせこと人間が蒔いた問題の種をだま〜って、調節してくれているのではないだろうか。
そう思うと、人間がやることは
「ありがとう、野菜さん。ありがとう、身体さん。よろしくね」
と、心から思うことだけでいいんじゃないかと思うのであった。
絵:「モンスター列伝」中内功
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4 件のコメント:
不思議だよねぇ。
誰も教えないのにね。
ほんとにねえ〜。
知らぬはニンゲンばかりなり。だったりして。
クスクス、笑われてたりして・・・。
あ゛、植物なだけに、クサクサって笑う
のかも。
出た!オヤジギャグ。
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