2009年6月27日土曜日
また食われちゃった
またやられちまった。なんてことだ。
さっきキジバトがへんなうごきをしていた。ジッと観察していると、羽を広げて巣の中に入ろうとしてはやめる。そして中に入らない。
そのうち巣の方から、茶色いヘビが枝を伝ってにょろ〜っとでてきた。
あーあ....お腹がしっかり膨らんでいる。
あの難攻不落の要塞は、一体どこが難攻不落なのだ?敵であるヘビにあっという間に落とされてしまったではないか。なんのためにあんなめんどくさいところに巣を作ったのだ?
なんてニンゲンがいちいち言うことではないのかもしれない。大自然の摂理において食うもの、食われるものが必ず存在するという事だ。でもこれは残酷な話ではない。「この世は残酷だー」などと嘆くための材料ではないはずだ。これをわざわざ見てしまった私に、何かを言わんとしているのだ。「あなたこそ残酷だよ」といっているのか?
キジバトは静かだった。コゲラの時とは違って、ただ黙って、事の成り行きを見守っていた。それが静観するということなのか。
昨日畑でインゲンについたカメムシを発見する。取り除いておこうかどうしようかと迷った。でもカメムシさんもインゲン豆を食べる権利がある。ニンゲン様だけが全部食うという決まり事はない。その場をおかりしているのだ。みんなでわけて食べるのがいいのかもしれない。そうおもって、私はカメムシをそのままにした。
カメムシとインゲン豆の関係には残酷さを感じないが、ヘビとキジバトの関係において残酷さを感じる自分がいる。それはおかしな感情?どちらも生きるために食うという行為をしているだけだ。
キジバトは自分の子供を食われながら、これもよし、と感じていたのだろうか。これも宇宙の摂理と。あの静かな眼差しは何を言わんとしていたのか。彼はヘビが巣にいる間、じっと枝に止まって私たちを見ていたのだ。
ぐーっと視点を上に飛ばして、宇宙から地球を見たら、そんなことも静観できる。今の私にはそんな視点が必要とされているのだろうか。
生も死も一つである。そんな現象にいちいち振り回されるな。生も幻想、死も幻想.。その両方を受け入れろと。
キジバトの目はそんなことを言っていたのかもしれない。
絵:ミステリー表紙
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2 件のコメント:
そうなんですよね。
刹那を無心で生きてるのが動物なんですよね。人間も元はそうだったんだと思うんですけど、きっと人間だけが心配をする・・・。
心配するから、心配事をなくすための手立てをする・・また心配事が増える・・・の繰り返し??
はて?いいことか悪いことか・・。
刹那を生きるとは、なんとなく、悲しいような切ないような生き方をする...というようなとらえ方をされているけど、ホントは、一瞬一瞬を生きるという意味だそうで、その一瞬とは、何十分の一秒ぐらいの速さの事らしいです。ものすごい一瞬だと思いません?その瞬間だけ考えて生きるって、ほとんど無心。
ニンゲンは、過去を振り返って反省するうちに、いつのまにかその過去を悲しい出来事のようにとらえ、未来にそんな悲しい事がないようにとあれこれ策を練る。それが心配の始まりなんだろうね。
動物はそんな過去を振り返って心配するということはない。たぶん、もっと大きなものに包まれている事を知っているんじゃないだろうか。自分もヘビも同じで、ただ肉体が循環しているのだってことを.....。
私はあのあと、キジバトの赤ちゃんがヘビへ変化したのだということを、親のキジバトがもう理解していたのではないのだろうか?と思った事でした。
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