2009年6月19日金曜日

人の名前のついた川




夕方おかずがないと気がつき、スーパーにコロッケを買いに行く。帰りの車の中で「またいっぱい買っちまった。あたしってバカ....」と自己嫌悪菌が発令。おっといけない。また出たゾー。
そのとき、空がぴかっと光る。「ひえっ!」一瞬車の中から歩道を歩くおじさんを見た。おじさんも肩をすくめて空を見た。

人はネガティブな事に敏感に反応する。
カミナリ→感電死。お金使う→貧乏→路頭に迷う→餓死。
そう。人は死に直結するものを無意識に感じ取る。それはこの世で一番怖いのは死なのだと、心の奥底の深ーい深ーいところで、泥のように沈み混んでまったく浮上しないアイディアなのだ。アンタッチャブル。誰にもわからないその正体だからこそ、今の私らを縛り付けている。すべての事がそこに一極集中する。

もっかの我が家の問題は経済。ニューヨークでバンバン稼いでいる時はお金の心配などしなかった。もっぱらグリーンカードの取得、いつふりかかってくるかわからない犯罪、近所の騒音(爆音)、そして心の平安だった。人って、足りているものには目もくれない。今はグリーンカードの取得のための苦しみや、犯罪の心配、騒音の問題などナンにもない。そんな苦しみなどなかったかのように「そんなの当たり前」とふてぶてしい。

ちょっとあーた、ニューヨーク時代どんだけ今の環境をのどから手が出るほど求めたと思ってるの。それを今はころっと忘れて、経済的な心配ばかりしている。人ってどうもどこか満ち足りると、何か他の、ネガティブなものを探すようになるのではないか?人生のがらくた箱の中から、何か足りないモノを引っぱりだしてきては「今これがたいへんなのよ〜」とバタバタする。

たしかに「私ってしあわせ〜」と始終思っていたら、何かどこかピントがボケるような、漠然とした気持ちになる。純文学でもそうじゃないか。主人公が幸せいっぱいだったら、物語にはならない。「ああ、幸せ。おしまい」となって、あっという間に物語が終わってしまう。だがそこに悪いやつが登場したり、突然の不幸が主人公を襲う事によって「じゃじゃじゃじゃ〜ン」と物語が始まるではないか。

つまりだ。これは何かしらの問題をつかむ事によって、人は生きる実感を得ているんではないだろうか。(なんつーやっかいな生き物なんや)無意識に純文学の中の主人公や、火曜サスペンスの被害者になろうとするのかもしれない。
「ああっ、私ってなんて不幸なの」「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ....」と。
テレビや小説を読むうちに、その主人公と自分を重ねあわせてしまうことはないか?そしてその生き方がカッコ良く見えて、いつのまにかそれをマネてしまいたくなる衝動はないか?かくして現実の中でも自分をメロドラマの中の主人公にして、ドロドロの人間模様の中でもがく。これを『人生メロドラマ主人公説』と呼ぶ。

今、私もネガティブ要素をみつけている。「ああ、お兄さん、マッチ買ってください....」と、マッチ売りの少女になりきっている(マッチ売りのおばさんだな)。



この世は劇場なのだと『ヴェーダ』は言う。
人は一人一人役者で『ザ・現実』と言う名のドラマの中で、まさにリアルタイムで役を演じている。殺人犯になるものもいれば、その被害者になるものもいる。社長と言う役もあれば、平社員という役柄もある。家にかえれば粗大ゴミと言われるお父さんになり、家で暴れ回る子供になる。だがその役を演じているという事は、演じさせている誰かがいるという事だ。それはとどのつまり、その本人ではないのだろうか。そしてそのドラマを楽しんでみているのは、実は私たち自身なのではないだろうか。(それってマゾ?)

なら私は、悲劇の主人公ではなく、喜劇の主人公になりたい。あっけらかんとこの世を楽しくドリフターズや欽ちゃんのドタバタ劇のように、何やっても明るく笑えるような主人公になりたい。ドリフターズがマッチ売りの少女をやったら、さぞかしバカバカしい話になるだろう。その役柄になるもならないも本人次第なのだ。暗い世の中を暗い暗いと嘆いてみたって、ちっとも明るくはならないのだ。政治家やこの世の仕組みを怒ったって、自分が明るくはならんのだ。
たとえば社会を嘆くと「それって社会派ね」なんてちょっと頭が良さそうにみえる。生きている実感も得られるというものだ。だけどそんなもの大きすぎて個人で手におえるものではなくて、一朝一夕に解決できる問題でもない。そんな大きな問題をかかえて悩んでいるうちに、心はもっと暗くなる。

あれが足りない、これがダメだという考えは、こうあってほしいという願望からくる。と言うことは、その時それが手に入っていないという事だ。手に入っていないという事は、すなわち不幸であるという意識になる。だからなおさらの事「こうあってくれなければ、私は不幸なのだ!それさえあればしあわせなのだ!」と、いつのまにか他の満ち足りている事も忘れて、それに執着する。じつは執着こそが生きている実感が得られるともいえるのだ。でもあえてネガティブなものに執着するという事は、常に自分に不幸がつきまとう事になる。いつも自分は不幸なところにいるという事を「実感」する事になる。その「実感」は本当に必要なものなのだろうか。

川っぺりの草にむんずとしがみついて、川の流れに逆らい続けていてしあわせなのだろうか。それをぱっと手放せば、川の流れに身を任せる事が出来る。そしてそれが本当のその人の向かって行くところだとしたなら、人間はなんて回り道をしているのだろう。

その川はきっとその人の名前がついた川なのだ。私も「つくし川」の流れに逆らわず、両手をぱっと手放して、流れるままに生きてみたら「実感」というものは得られないかもしれない。ましてやどこに行くか予想もつかない。だけど最終的に今回生まれてきた意味を知る終着点にたどり着けるような気がする。
川っぷちに生えているネガティブという名の草を手放してみるか〜。


絵:「動物診断」ライオン

4 件のコメント:

リス さんのコメント...

人生は川の如しなんてこと、ネッカー川を見下ろすバーで聞かされたことあるな(口説かれていたわけではないけれど)。川にはどこか、人の人生を象徴するところがあるのね。つくし川はどんな川?急流があったり、他の川と混じりあったりするのかしら。

つくし さんのコメント...

他の川と混じりあうかあ...。ダンナの...?げろげろ。

つくし川は、アマゾンの奥地みたいにくねくねうねうねまがりまくって、一体どこいくんじゃ〜〜〜っ、てな川でしょーか。

さては口説かれていたな。

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

みんな、どこ行くかわからない川に流されてるだけなわけね。

つくし さんのコメント...

そうそう。それがまたおそろしい。でも別に人の川を流れているわけじゃなくて、自分の川なんだから、そう心配するこたあないのかもよ。
でも心配しちゃうよね。ははは。