2009年5月7日木曜日

悟りとは思い出す事




人は何気ない事でぽっと何かに気がついたり、感じたり、わかったりすることがある。けれどもそのとき、それは言葉にはならない。
ところが、その心の震えや感動は、時とともにだんだんと薄れていく。それは人と比べ、常識というオブラートにくるみ、そのうち「そんなことありえない」「いやいや、今のは気のせいだ」「常識じゃないでしょ」と、だんだん自分で否定していくからだ。

たとえば、へんな生き物を森の中で見たとする。その時にはその自分で見たものをそのまま受け止めている。でもそのあと一歩一歩足を進めるごとに、「いやいや、あれはまぼろしだ」「そんなものいるわけないでしょ」「木の枝かなにかと間違えてみただけだ」と、どんどん自分でみた生き物を否定していく事になる。そしてその話を友達にして「ばかねー。なんかの気のせいよ。」といわれて、「ンだよな。そんなわきゃねえよな。バッカだなあ〜オレ」と一笑にふし、その生き物を見たことはかんちがいの笑い話になり、記憶の蔵の奥底にねじ入れてしまう。


うちのダンナが言う。
「霊感があるとかないとか言うけど、実はみんなあるんだよ。感じているし、見ているんだよ。ところが、霊感があると言われる人たちが、劇的に、こんなふうだった、あんなふうだった!と、声高らかに言うもんだから、『お化けをみるってこんな風なんだ』とか『啓示を受けるって、劇的なんだ』とか思い込んでしまう。でも実際はもっと静かで、ぽっとしたことなんだよ。」

うちの母も、自分の身に起こった霊的な事を劇的に話す。話は何度も繰り返され、そのつどもっと劇的になる。そういう話を聞きながら、私が今まで感じてきたもろもろの事が、なんて事のない出来事に思えてきて、私ってたいした直感も霊能力もないのねと思っていた。霊能力がありそうな人たちの証言と、自分の経験を比べて、自分が感じたり、気がついたりした事が、時とともに一枚一枚紙きれで覆い隠し、結果的にたいした事でないようになってしまっていたのだ。



本当は、人は実はいろんなものを見ているし、感じているし、発見しているのだ。その自分が体験した事を人と比較して消してしまうのではなく、その実体験を大事にする事なんじゃないかとダンナは言う。その実体験を思い出し思い出しするうちに、大事な部分にたどり着くのではないかと。
お釈迦様の悟りは、激しい修行をして得たものではなく、ただ自分がすでに悟っている事を思い出す事だった。
ふっと時折やってくるある種の感じやアイディアは、すでに悟った自分が、自分に与えているヒントなのではないだろうか。悟りは外に求めるものじゃなくて、自分の中にすでにある事を思い出す事。

ってことは、人と自分を比べるなんて、まったくナンセンス。私の自己嫌悪虫は、人と自分を比べ、常識と比べて、自分を否定する。これってまったく反対の方向じゃねーかー。
ここんとこ、自分がいかに人と比較して生きていたのかを知る。なさけないのー。


絵:ECC教材絵本『一寸法師』より

2 件のコメント:

リス さんのコメント...

おもしろいですね~ 人の可能性。
逆に言うと、今、自分が見ていることは、ほんの一面しか見えていないのかも知れない。
まだまだ見えないものがあるし、知らない世界があるからこそ、もっと知りたいし、生きていく楽しみがある。

つくし さんのコメント...

ホントにそう思います。
ほんの一部しか見ていないとも言えるし、実は見ているんだけど、頭に届いていないだけで、心で見ていたりする。
これからじゃないかな、これからもっとおもしろくなりますよ!