2023年7月9日日曜日

私の心を癒すために兄弟がいてくれる


 

友人が人の悪口を話している。

私はそこにいちゃもんをつけたくなる。


それはあなたの投影ではないのか?と。


するともう一人の私がいう。


それをいうなら、その友人の悪口を聞いていることも、私の投影じゃないのか?と(笑)


投影が投影されて、もうどっちがどっち?って話になる。

投影ってそういうトリックがある。


そうして私は何も言えず、

ただ目の前の友人を心で赦した。




それから数日経った今、またそのことを思い出す。


その出来事をマジマジと思い返し、もう一度じっくり考える。


彼女が話す内容は辛いものだったけれど、

彼女はその一連のことを愉快そうに話す。

でもその奥に深い悲しみと怒りがあった。
そしてそれは愛を求める叫びだったのだ。


それを見たとき、私の心に慈悲の思いが湧いた。

そしてその奥に本当の神聖な彼女を見た。



この頃思う。

目の前で展開していることは、本当のことじゃない。

その奥にある兄弟の正直な心を見るためのものだ。


その二人の間で終わらしていく何かがあるのだ。

そのための出来事。


どんなひどい攻撃を受けたとしても、

それを発した人の心には、かならず愛を求める叫びがある。

愛してくれと懇願している。


兄弟は、愛を与えるか、

愛を求めているか、のどちらかだ。

どちらも「愛」なのだ。


その愛を求める叫びは私なのかもしれない。

それが兄弟であろうと、私であろうと同じ。

ひとつなのだから。




それを見つけるなら、愛を求めて叫んでいるその悲しむ心を思いやる。


それだけでいいのだ。


そのとき、私の心が癒される。

そしてきっと兄弟も同じように癒される。


私の心を癒すために、兄弟がいてくれる。




絵:ミステリー表紙イラスト




2023年7月6日木曜日

どうにかしろ人生


 

もうコントロールしなくていいんだ。。。


そう思った時、ふわっと肩の荷が下りた。


人生62年。

思えばどうにかしてこれを変えねば!どうにかしてもっといい方向に向けねば!

と、どうにかしろ人生だった。


それを「起こることが起こっているだけ」とか

「シナリオどおり」とか

「もうすでに終わっていることを再現フィルム見ているだけなのだ」

とか言われても、なんか納得がいかなかった。


起こっている出来事が気に入らないから、それをいじり倒すだけでなく、

そのこれから起こるであろう出来事を回避するために、

「思考が現実を作るなら、ならその思考を変えればいいじゃん!」と、ニューエイジ系もやってきた。


しかし一向に変わる様子もないし、ほとほと疲れ果てた。


やはりこれはスクリーンに映ったただの映像なのだ。

と、ぼーっとスクリーンを見つめる。


そしてある時あるブログに出会う。


「あ。。。」


と、冒頭の心持ちになったのだ。



確かに最近、そのままにしておくことが多くなった。

「ほっとこう」「まあ、収まるところに収まるんだろう」

「これは私にゃできねえ」「ただ観てよっと。。。」


多分、いい悪いの判断をすることが、

だんだん「これ、判断する意味あるの?」という思いに変わってきたからなのだろう。


この世のいい悪いの判断は、

横滑りの判断で、どこにも行き着かない。

どれも同じなんだなと思うようになり始めた。


今日はその判断で良くっても、明日はその判断は間違っている。

絶対的な判断なんかないじゃんかよ~。

それ、もともと判断できるものではなかった、

いや、そもそもこの世とは、まったく理屈の通らない世界なのだと。




例えばトカゲを自転車で引いてしまったとする。(実際引いてしまったんだがね)

すると私たちは何か悪いことでも起こるのではないか?と不吉なことを予想する。

そしてその後悪いことが起こったら、

あーあれはこのことの前触れだったんだ!と言って頭をかかえる。

そして今度こそ悪いことが起こらないように、前触れをいち早く察知して、

その悪いことを回避するのだ!と考える。


こうやって、あらゆることを何かの前兆として見始める。

これは別の言い方をすれば、身構えるということでもある。

(それこそが心を小さくさせているのではないか?)


この世界は突然悪いことが起こってくる恐ろしい世界だから、

それをなんとか回避するためにあの手この手を考える。

ニューエイジ系もまたその一つ。自己啓発もまたその一つ。


これが私のコントロール大作戦だった。


でもトカゲを引いたことは、次の悪いこととは繋がっていないとしたら?

病気をしたことが、何か自分が悪いことをしたことの罰ではなかったとしたら?


その起こっていることを意味づけするのをやめてみたら?


私たちは意味づけすることが好きだ。

その意味づけによって、嫌なことを回避することができる絶対的な方法を探しているのだ。


でもこれが起こったから、こうなったという意味づけが、


これが起こった。

次にこれが起こった。

以上!

だったとしたら。


繋げて考えない。


ここで「シナリオだから」とか

「起こることが起こっているだけ」とか

「すでに撮り終わったフィルムを再現している」ということが俄然迫ってくる。



ただ現れてくるものを、現れてくるままにほっておく。

すでに現れているものは、私が見たいと願ったものを見せてくれているのだ。


であるならば、これを変えることに躍起になる必要があるのか?

だって願ったものを見ているのだから。


そしてそれは、願ったものを変えようが、変えまいが、

どっちに転んでも同じことだと気づいていく。


その現象に何の判断もせず、赦し、消えて行くままに放っておく。



これは私の心から出た、愛おしい結果なのだ。




絵:コージーミステリー表紙イラスト







2023年6月29日木曜日

神聖さの連鎖


 

町会のはずれに、ひっそりと神社があった。


二度の放火にあったと聞いてから、なんとなく足が遠のいていた。


しかし町会の歴史を辿る仕事を請け負った手前、

そこを通りすぎるわけにもいかず、ある日立ち寄った。


そこで二人の男女が掃除をしているところに遭遇。


初めはここの神社の関係の方かと思ったがそうではないらしい。

なんでも今年初めの頃にこの神社を知り、

あまりの荒れ果てぶりにちょっとづつ自分たちで掃除を始めたのだという。


それから毎週ここにやってきて、

自分たちのペースで掃除をしては高尾山に登り、

都心に帰っていくというローテーションになっているのだという。


縁もゆかりもない人が、こうやって人知れず綺麗にしていく行為に私は感動してしまった。

ラインを交換し、やりとりが始まった。


やはりその神社の持ち主に承諾を得たほうが、

自分たちも気持ちよく掃除ができるという話になった。

ところがその持ち主は引っ越して今はどこにいるのかわからない。

町会の人に聞いてもわからないという。

ところがひょんなことから連絡先がわかった。


実はそのご家族は、圏央道問題ど真ん中にあったこの町会で、

唯一立ち退きを迫られた、

いわば圏央道を建てるにあたって犠牲を払った一家であったのだ。


生まれ育った家や町から離れなければならない上に、

心ない言葉も浴びせられてきた。その思いはいかばかりであったか。

その方に会いに行く。

どんなふうに会えば良いのだろうと思いあぐねていたが、

そんな思いとは裏腹に、久しぶりにこちらに出向いてくれるというではないか。



奇しくもその犠牲の上に出来上がった橋の下にある町会の会館に、わざわざお越しくださった。

久しぶりに彼に会いたいと、町会の人たちもたくさん集まってくれた。


その日は不安定な天気になる気象予報だったが、

一滴の雨も降らない、いい風が吹き渡る素敵な時間だった。

神社の成り立ちや、その手前にあった大きな旅館のことなど、

色々資料を持ってきてくださり、貴重なお話がたくさん聞けた。

そして気になっていた掃除の件も快く承諾してくださった。



ふと立ち寄った神社で偶然出会った二人。

その二人をきっかけに次々とつながりが連鎖し、

最後は町会の暗い過去のわだかまりも溶かしていく結果になった。


この場所は曖昧なまま通り過ぎるところであったのに、

最後はこのようにクリアになり、町会の全てがピタッと繋がった感があった。




その夜、高揚感が収まらず、寝付けなかった。

この幸せな思いは一体なんなんだろう。


最初に神社でご夫婦の神聖さに触れた。

その神聖さが、次の人の神聖さに延長され、

それが次々に延長され、

最後はただただみんなの心が繋がって喜びがあふれた。


コースはこういうことを言いたかったのか。

人は一人では悟れない。兄弟と一緒に悟るものだと。


みんなが喜び合うこと。それだけが実在する。

喜びは、分離して喜べない。

喜ぶ時、それはひとつになる。

そのひとつになったものだけが真実だ。


闇を見る時、それは実在しないものを見ている。

だけど喜びで見る時、それは神の反映を見ているのだ。


同じ見ているものでも、こっちの心持ちによって、完全に別のものとなる。


罪を見るなら、その偶像はあたかも存在しているように見るだろう。

しかし愛で見るなら、その偶像はあるように見えて、それは実在しないとわかる。

なぜならその時すでにその背後に実在するものを、すでに感知しているからだ。


だから形など重要ではなかった。

繋がっている心だけが重要なのだった。


こんな体験をさせてくれたご夫婦に、心から感謝したい。




絵:「coopけんぽ」表紙イラスト/ぽんぽこたぬき






2023年6月26日月曜日

ミッション「自分を嫌え!」


 

太ってる。痩せない。足が痛い。食べちゃダメ。

クライアントから仕事の直しが来るかもしれない。

部屋が汚い。庭の草がボーボー。。。


絶えずぶつくさ考えている自分。


一体なんなんだ?このぶつくさは。


散々ぶつくさ言って、


だからきらいなの、自分のことが。



私は自分を嫌っている。

自分のことがどれだけ嫌いか。。。


いや。。。ちゃう。。。

なんかちゃうぞ。。。




そうか!

ほんとは、自分を嫌う材料を探していたんだ。。。!



私の心は「自分のことを嫌う理由」をずっと探し続けているんだと気がついた。


ポカンとした。

なんなん?これ。


自分に絶えずイチャモンをつけ続ける、この衝動は何?





嫌いたがっているのは、まさかこれ?


神の子が、神から離れたがっていたわけだから、

一番やりたかったことは、神の子を嫌うこと。


マジ!?


嫌うことは神様への抵抗。

だって神は愛しかない。

愛以外になることって、嫌うことやんか。


 

ということは、私のこの世界でのミッションは、

「私を嫌うこと」だったのだ!


嫌って嫌って嫌い尽くすことだったのだ。


ブスだから嫌い。才能がないから嫌い。醜いから嫌い。

あれも足りないこれも足りないから嫌い。

あれもこれも嫌だから嫌い。

常にそのことしか頭にない。

だって、それが仕事だったんだもん(ぎょえ~~~!)



ということは、

と、と、ということは、よ。


本当は「私大好き!」なのだ。



だって、嫌うってことは、好きってものがないと、嫌えないのだもの。



自我は「自分を嫌え~自分を嫌え~」と、絶えずささやく。

そうでないと、ささやきそこねてたら、

「自分大好き!」にあっという間に戻っちゃうからだ(笑)。


だから自我はひたすら私に、

「お前は罪びとだ」と言いつづけるのだ。


だってうっかりしてたら、

すぐに「神の子」を思い出しちゃうからだ(笑)。



だから自我は働きつづける。

悪魔のささやきを。


ごくろーさん。

その遊びはもう飽きた。

ミッションコンプリート。


おままごとはもうおしまい。





絵:コージーミステリー表紙イラスト